チャレンジャー号の墜落と先輩の死
ひとつの事故が、向井千秋の人生を大きく変えた――。
1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げを待つアメリカ合衆国フロリダ州は、異例の寒波に襲われていた。事故が発生したのは、打ち上げから73秒後。空気抵抗が最も大きくなる危険域を通過し、機体が出力を上げた直後だった。地上との最後の通信には、機長の「Uh-oh.(あっ、まずい)」というつぶやきが残されている。
白い煙がうねりながら四方八方へ触手を伸ばし、内側から赤黒い炎が噴き出した。
日本時間29日未明、向井さんはブラウン管テレビに映し出された光景に、震えを隠しきれなかったという。
「膝がガクガクしたのを覚えています。チャレンジャー号にはオニヅカさんが乗っていたので……」
エリソン・ショージ・オニヅカ氏は日系人初の宇宙飛行士だ。かつて宇宙飛行士の最終選抜時にNASAを訪れた際に向井さんを含む7名を励ましてくれた、心強い先輩だった。
それにね、と向井さんは言葉を継いだ。
「スペースシャトルは、アメリカが誇る最先端の科学技術の結晶だった。それが落ちるなんて、当時の私は夢にも思わなかったの。人間は科学技術で環境を、社会をどんどん変えられるって信じていたから……」
宇宙飛行士“以前”向井千秋の30代
「科学技術が豊かな未来を連れてくる」と誰もが信じた1980年代。アメリカではスペースシャトルの初打ち上げに成功、つくば万博ではSFの世界が現実となった。家庭には全自動家電やビデオデッキなどが登場し、「時間」の概念さえ変わっていった時代だ。
世界中が科学の力に熱狂するなか、向井さんは1985年に33歳で宇宙飛行士の選抜試験に合格する。しかし実際にスペースシャトルに搭乗して宇宙に行けたのは1994年、42歳のときだ。
30代は彼女にとって、宇宙へ飛び立つまでの長い助走期間にあたる。「アジア人女性初の宇宙飛行士」という冠を持つ向井さんにも、迷い、悩み、苦しんだ時期はあったのだろうか――。
「とんでもない! 当時は毎日が楽しくて、次の日が待ち遠しかったんです」
身振り手振りを交えながら30代を振り返る向井さんは、現在74歳。東京理科大学の特任副学長を務めながら「月に住むための研究」をしているという。
幼いころから何にでも興味を持つ子どもだった。体力勝負でも男性に引けを取らず、大学時代はスキーの大会で優勝。医師になってからは専門領域として心臓外科を選び、故石原裕次郎氏の担当医になったこともある。
医師というキャリアから宇宙飛行士へと飛躍した女性――。そのバイタリティは、70代になっても衰えていない。本来ならあらゆる意味で「遠い人」であるはずなのに、なぜか距離を感じさせない親しみやすさがあった。
選考結果を聞き「あと2名は誰?」
1983年に開始された日本初の宇宙飛行士選抜試験は、募集開始から決定まで約1年8カ月を要した。
「宇宙飛行士の選抜試験って、おもしろいんですよ。三半規管を調べるために、耳にいきなり水を入れられたり、回転いすでグルグル回されたり。
私は医者だから、いつもは検査をする側でしょう? 『患者さんって、こんなに大変なんだ』とわかって、『もうちょっと優しい医者になろう』って思いましたね」
どんな人が宇宙飛行士に選ばれるのだろう。想像がつかないからこそ、検査やペーパーテストの一つひとつに興味津々だったと、向井さんは当時を振り返る。
最終選考まで残った7名には、都内のホテルでNASDA(現・JAXA)の職員から一人ずつ直接結果が告げられたのだという。
「選ばれたときは、『やったー!』っていう気持ちが強かったかな。でも同時に『あと2人、誰?』って思った。残った7人は同じ釜の飯を食った仲間だから、とても仲が良かったんです。みんな優秀でバイタリティがあって、誰が選ばれてもおかしくなかったの」
「だんご3兄弟」宇宙飛行士たちの挑戦
日本人初の宇宙飛行士に選ばれたのは、材料科学が専門の毛利衛さん、ライフサイエンスの向井さん、宇宙工学やエンジニアリングの土井孝雄さんの3人だった。
「ひとつのチームとして実験を行うので、自分の専門だけわかっていればいいわけじゃないんです。だから、『毛利さん、ちょっとここ教えて』『向井さん、これってどうやるの?』なんて、お互いにわからないことを聞いたりして、切磋琢磨していました。
長男がしっかり者の毛利さんで、真ん中が私、土井さんは夢見る弟。『だんご3兄弟』みたいにどこへ行くにも3人一緒で、とてもいいチームだった」
宇宙へ飛び立つまでの約7年間、3人の活動の大部分を占めたのは、体力づくりよりも、宇宙での科学実験を完璧にこなすための猛勉強だった。搭乗する宇宙飛行士は、単なる乗組員ではなく科学者だ。
このミッションには、日本が宇宙で行う実験として、材料実験22テーマ、ライフサイエンス実験12テーマの計34テーマが予定されていた。ただし、スペースシャトルに搭乗する科学者は1人だけ。選ばれた搭乗者は、自分の専門分野に限らず、すべての実験を「代表者」として担当しなければならなかった。
つまり、候補者3人のうち誰が選ばれても、専門外の実験まで含めて幅広く理解し、実行できる能力が求められていたのだ。
大変な日々も「自分のためだから」
「当時の私は材料科学なんて全く知らなかったので、かなり勉強しました。どんなに眠くても予習・復習しないと次の実習についていけないから、必死だった。あとは英語ね。私は医者だったので英論文の読み書きには慣れていたけど、話す・聞くはなかなかできなくて」
搭乗準備中の当時は、学習や実習、研修のプログラムが多い上に、体調、睡眠時間すら管理されていたという。気持ちが崩れることはなかったのだろうか。
「もちろん、学習や実習に取り組んでいるときは大変ですよ。でも、全て自分のためにやっていることだから、明日が来るのが楽しみでした。医師だけやっていたら絶対できない知識や経験を積むことができた、充実した日々だったなあ」
当時最先端の知識と技術を持った科学者たちが、自分たちの代表を宇宙へ送り込む。そしてそこで得られた実験結果が、また人類を一歩先に進める。科学技術が発達すれば、人間はますます幸せになれるはずだと、当時の向井さんは信じて疑わなかった。
「科学は完璧じゃない」それでも宇宙へ
しかし、訓練開始から約4カ月後、スペースシャトル・チャレンジャー号の大事故が発生する。
「科学は完璧じゃないって、神様にピシャっと頬を打たれたような気持ちでした」
どれだけ科学技術が発達しても、人間がやることに完璧なものなどない。ましてや、スペースシャトルは完成された乗り物ではない。飛行機よりもはるかに高い確率で墜落し、高確率で人命が失われる。頬を叩かれて目が覚めた。
この衝撃的な事故を受けて、向井さんの宇宙飛行士へのモチベーションは変わらなかったのだろうか。
「事故は悲しい出来事だけど、怖いからやめたいという宇宙飛行士なんて、一人もいなかったんじゃないかな。
新型コロナが流行したときの医師や看護師だって、常に自分や家族が感染して命を落とすリスクを抱えて働いていたでしょう? シャトルが墜落するよりもずっとリスクは高いはずなのに、患者さんを助けるために現場を離れなかった。
どんな仕事でも、プロフェッショナルはリスクを受け入れて働いているんだと思います」
さらにこの事故は、向井さんの価値観だけでなく、キャリアをも変えるきっかけとなる。原因究明のため、NASAはスペースシャトル発射計画の中断を発表。1988年に予定されていた日本人宇宙飛行士の搭乗機会も、無期限延期となった。
「それまで私は、3年間でこのプロジェクトが終わったら、また医師に戻ろうと思っていたんです。でもチャレンジャー号の事故で、私の中途半端な態度も神様に咎められた気がしました。『千秋、人生はそんなに甘くないよ、考え直しなさい』って」
臨床医として患者を診ることはなくても、宇宙飛行士として教育や研究の分野で医学に携わることはできる。
当時33歳。改めて「宇宙飛行士・向井千秋」のキャリアがスタートした。
宇宙飛行士を「職業」にするために
1990年4月、日本人初のスペースシャトル搭乗者が毛利衛さんに決定。向井さんと土井さんは、バックアップ要員として地上からサポートすることが発表された。
――残念ながら今回は搭乗できなかったことについて、どう思うか。
搭乗者発表の記者会見でも、その後インタビューでも、現在に至るまで繰り返し投げかけられたこの質問に対して、向井さんの答えは一貫している。
「もちろん悔しいという思いはあったけれど、世界記録を持っているアスリートだって、必ずしもオリンピックで金メダルを獲れるわけじゃない。『時の運』だからしょうがないんですよね」
宇宙へ行くことだけが宇宙飛行士の仕事ではない。遠隔から指示を出す地上のメンバーも含めて、1つの研究チームなのだ。そして当時3人が考えていたのは「自分が最初に宇宙へ行くこと」よりも、「第一世代として、日本に宇宙飛行士という職業を定着させること」だった。
1992年9月、向井さんは、毛利さんを乗せたスペースシャトル・エンデバー号を地上から見送った。日本人初となる7日22時間30分の宇宙実験は、無事成功を収めたのである。
40代でつかんだ「宇宙への切符」
そして帰国後、エンデバー号の飛行報告会の最中に、向井さんは自身の宇宙飛行へのチケットを手に入れた。
「実は、1回目の飛行が毛利さんに決まる前から、次の飛行の準備をしていたんです。当時科学者には、研究飛行のチャンスがたくさんあったから。
私は、最初から複数回飛ぶ、飛ばなきゃダメだとずっと思っていたの。当時の宇宙開発途上国の宇宙飛行士は、一度飛んで帰ってきて、国の英雄として広報活動するだけで終わっていた。でも、それって宇宙飛行士の仕事じゃないでしょう?」
その後向井さんは1994年に42歳でコロンビア号、46歳で1998年のディスカバリー号に搭乗した。当時の活躍はメディアで知られる通りである。
その後は地上からミッションに参加し、20年間にわたり計5度のフライトに携わった。
ここで、向井さんの「選ばなかった人生」に話の矛先を向けたい。
向井千秋が子どもを持たなかった理由
20代で外科医になり、30代で宇宙飛行士に選ばれ、40代で宇宙へ飛んだ。向井さんの人生は、地上から見上げる星のように遠く、輝いて見える。
特に30代は、仕事、結婚、子どもなど、自分の生き方に悩み、迷う時期でもある。だからこそ、向井さんは最初から特別な人だったのだと思いたくなる。
だがここで、本人から意外な言葉が飛び出した。
「でもね、人生のなかで、私は子どもを持つという道を選ばなかったのよ。子どもを持つなら、子どもが成人するまでは親としての責任を果たさなければいけないって思っていたから。
生まれた子が世に出て、まっとうに生きていけるまでは、少なくとも20年くらいはかかるでしょう。20年間責任をもって子どもを一人前に育て上げる人もいれば、私のように宇宙へ行くために20年を費やす人もいる。
人生は短くて、あれもこれもやりたいって手を伸ばすのが難しいから、『こっちを選択するためにあっちの選択を捨てなきゃ』って思ってしまう。そうじゃなくて、『たくさんあるチョイスのなかで、自分はこの道を選ぶんだ』って考えるの。そのほうがポジティブに進めるでしょう?」
人生は「図書館」のようなもの
仕事か、子どもか――。30代の女性が常に向き合い続ける問いだ。キャリアを優先すれば家庭を犠牲にしている気持ちになり、家庭を選べば仕事への諦めを感じる。どちらを選んでも、「もう一方を選んだ自分」を考え続けてしまう。
しかし向井さんの言葉には、何かを犠牲にしたというネガティブな響きはなかった。
「どんな道を選んでも、自分で決めたのだから、その中にさまざまな苦労があって当然。家庭を持ち子どもを育てるという道にも、私が選んだ宇宙飛行士という道にも、それぞれ生きがいや苦労があって、学ぶこともある。どの道も大変さは同じなんです」
向井さんは33歳で宇宙飛行士に選ばれて以降、日本とアメリカを駆け回って研究に明け暮れた。34歳で医学部の先輩だった向井万起男氏と結婚したが、その後アメリカに渡ったため、籍を入れてから夫と一緒に暮らした期間は半年ほどだったという。
「人生は、図書館のようなものだと思うんです。たくさんの本が並んでいるけれど、一生かけても全部は読み切れないじゃない? だからその中から自分の好きな本を選ぶ。
それと同じで、人生は自分の目の前にあるいろんな道を、自分で選んでいくことなんじゃない?」
“持っていたはずの選択肢を失う”ではなく、“無限の選択肢から進む道を選びとり、人生を肉付けしていく”と考えれば、人は進む道を選ぶたびにパワーアップできる。ときに、選ばなかった人生をうらやましく思う瞬間があったとしても。
「隣の芝生が青く見えたら、自分の芝生を手入れして青くすればいいんです」
周囲の人を自分の「写し鏡」にして
30代を振り返り「やっておけばよかったこと」は何か尋ねてみると、向井さんは「私、後ろを振り返らないから! 1週間前のスケジュールだって、全部頭から消えているほどよ」と笑いながら言った。あえて挙げるなら、けがをしないように避けていたスキーと、バックパックでの貧乏旅行だという。
続いて「やらなければよかったこと」を問うと、長考ののち「一目ぼれして、似合わない洋服を買ってしまったことかしら……」というチャーミングな答えが返ってきた。
「マネキンが着ていてね、素敵だなーと思って買ったんだけど、帰って着てみたら、全然似合わないの! これ、買わなきゃよかったなって」
うきうきと袖を通したものの、鏡の前で凍り付く若き日の向井さんを想像して、自然に頬が緩んでしまう。
ふと「向井さんでも、自分が見えなくなることはあるんでしょうか」と聞いてみた。向井さんは「自分がやりたいこと」の解像度がとても高いと感じたからだ。
すると、次の答えが返ってきた。
「自分の姿は、自分ではわからないものよ。だからこそ失敗を恐れず、恥ずかしがらずに周りからフィードバックをもらって、少しずつ変えていけばいいと思う。『恥をかきたくない』なんていうプライドを持っていたら、自分が損するだけなんだから!」
150歳への助走
70歳を過ぎても、向井さんの宇宙に対する興味・関心は尽きない。現在は、宇宙空間で人間が健康的に暮らすための研究をしているという。
「私たちってね、生物学的には120歳まで生きられるはずなのよ。今も医学はどんどん発達しているし。
目が悪くなればメガネをかけて、心臓が悪くなればペースメーカーや人工心臓を入れるじゃないですか。もしかすると、自分の脳や意識さえ残れば、体をすべてリプレイスしながら150歳を超えて生きられる未来が来るかもね!」
もしも『銀河鉄道999』のように機械の体を手に入れたなら、向井さんは再び宇宙へ向かうに違いない。30代のころと変わりなく、向井さんは未来に向かって助走を続けている。