「お父さん、もう嫌だ」

石巻商業高校の外観。震災時はここも津波に襲われている。

石巻商業高等学校2年生(総合ビジネス学科)の沼津明日香さん。志望は保育士。保育士になるには、どういう学校に進むことになりますか。

「お母さんもお父さんも賛成してて、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも『あなたは保育士に向いてると思う』って後押ししてくれてるんですけど、『高校も大学も近い所に行きなさい』って言われてて。なんか遠くに行かせたくないみたい」

「箱入り娘だ」——聞いていた男子たちの間から声が上がる。沼津さんが再びつぶやく。

「お父さん、もう嫌だ」

いや、そう言ってはお父さんがかわいそうです。沼津さん、遠いところに行かなくても保育士にはなれますか?

「一番近い大学で、石巻専修大学があるんですけど、あそこに保育科の何かができたみたいで、そこに入れば、多分いいのかなって」

石巻専修大学は、1989(平成元)年に旧石巻市内に開校した。現在の学部学生数は約1500人。同学は人間学部〔人間文化学科・人間教育学科〕の2013(平成25)年開設を目指し、文部科学省に設置認可申請中で、人間教育学科の中には、保育士や幼小中高教員養成のための保育士・教員養成センターを設置する予定だ。

石巻専修に行けば、保育士のルートにも乗れるし、お父さんも幸せじゃないですか。

「でも、わたし的には、親元を離れたいです。ひとり暮らししたい。なんかもう門限とか早すぎて……」

門限は何時ですか。

「6時です。もう、なんか……お父さん大好きなんですけど……わたしのことを思って言ってくれてるっていうのはわかるんですけど。今まであまり気にしたことなかったんですけど、当たり前だと思ってたことが、高校生になって『あれ? みんなとは違うんだ』って。お父さんは6時には帰って来てないんですけど、お母さんに電話して『明日香帰ってきてる?』って。お祖父ちゃんも、男の人から電話来たら電話切るし」

昭和のテレビドラマのようです。お父さんは何屋さんなんですか。

「お父さんは日本製紙の運輸会社で働いてます。45歳です。お母さんとは職場結婚。震災のあと、最初はほんとうに仕事がなくて、がれきの片付けとかそういうのばっかりで、給料もあまり入ってなかったみたいなんですよ。わたしは何も言われてなかったんで、わからなかったんですけど」

石巻高校2年の松本一馬さんが言う。「俺も、父は日本製紙の系列の印刷会社の役員です」。高校生たちの賑やかなおしゃべりが続いた。「日本製紙で働いてるのって、ここの辺の人たちでは勝ち組だよ、勝ち組」「どうなんだろう? でも、わたし、お祖父さんの代から日本製紙だったから……」「すげぇ。だから、お嬢様なんだ」「違う違う! でも日本製紙はお父さんのほうで、お母さんのほうは、水産業の社長で」「もっとエリートだ」……。

石巻の巨大製紙工場はいくたびも系列を変え、祖父の世代には東北パルプ、父たちには十條製紙、そして今、高校生たちには日本製紙として認識されている。工場の設立は、1938(昭和13)年。原材料として東北の山地に多いブナが見込まれた。王子製紙と東北興業が出資し、東北振興パルプが設立された。東北興業は1936(昭和11)年に設立された半官半民の会社だ。1933(昭和8)年の昭和三陸大津波、1930(昭和5)年から5年間続いた大凶作で壊滅状態になった東北を復興する目的で設立されたのだが、右傾化する世論と東京政府は軍事支出を優先、東北復興への資本投下は尻すぼみになった。

東北興業には実業のノウハウがないため、運営はすべて王子製紙に託された。当時の同社会長は藤原銀次郎(慶應義塾大学理工学部の創設者)。藤原は島根県の「松江日報」で記者をしていたことがある。同時期に松江で警察官をしていたのが、石巻前市長の石母田正輔(石母田正の父)だった。「工場が石巻に決定する前に、藤原さんが石母田さんに手紙をよこし、『地元も工場設置に協力するならば、石巻に決定する可能性が多い』という内意を示された。この手紙を石母田さんから見せてもらって、私たちも大いに力づき、石巻市としても積極的に協力することとした」(前石巻市議会議長の回想。『社史』東北パルプ株式會社社史編纂委員會、1952年刊、p.124)。『社史』には、鉄道(東北本線)の利から外れた石巻が、当初は第二候補地でしかなかったことも記されている。第二候補地に生まれた工場は、三世代ぶんの時間を重ね、今では高校生たちに地元の勝ち組企業として認識されている。

その街の大人たちの「心根」に、憤りのことばを向けた高校生がいる。沼津さんの1年先輩にあたる庄司太樹さんだ。