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大体の情報は生活しているだけで入ってくる

一橋大学大学院 
国際企業戦略研究科 教授 
楠木 建 
1964年東京生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『知識とイノベーション』(共著、東洋経済新報社)などがある。現在、プレジデントオンラインにて、『楠木建の「戦略読書日記」』を連載中。©Takaharu Shibuya

楠木 なんで忙しくなるかというと、結局いま、人間に降り注いでくる情報の量が多すぎると思うんですよね。ですから、一つひとつの情報に注ぐ注意が減っている。人間の脳の処理能力が一定だとしたら、この注意と情報のあいだでトレードオフになりますから。

インターネットが出てくる前、新聞とか、雑誌を読んでいるときに、1文字に注がれている注意の量と、いまみたいにウェブでバンバン何でも見られるようになってからの1文字に注がれている注意の量では、1:10000くらいの差が出ていると思います。まさに情報と注意のトレードオフです。考えるということは、情報の量より、注意の量を増やすことだと僕は思っていて、注意を取り戻すためには情報を遮断するしかない。たとえばテレビを見ないとか、新聞も極力見ないとか。こんな時代だと、大切なことって、もうほっといても入ってきちゃうんですよね。テレビを見なくても、大体のことはふつうに生活しているだけでわかりますから。だから僕はやっぱり情報の遮断というのが日常の習慣として大切なんじゃないかなと思うんですけどね。

広木 おっしゃるとおりですね。僕はまだかなりアナログな人間なので、紙の新聞を取っていますけれども、昔ほど時間をかけて見てないですね。結局、日経電子版のツイートが来て、そこから電子版のほうを見にいったりしてしまうので。情報の入って来方がやっぱり昔と全然違う。

楠木 どんどん断片化してますでしょ。

広木 ええ。でも逆にそれもいいんじゃないかなと思うんですね。東日本大震災以降、大手新聞だとか大手放送局に対する見方がだいぶ変わったと思います。東京電力に対する報道姿勢をみていても、非常に体制化されたメディアというイメージがついてしまった。それに対して、フェイスブックだとか、ツイッターだとか、いわゆるソーシャルメディアが台頭してきたわけです。で、またそれに対して、ソーシャルメディアのメディアって、ほんとうにメディアと言えるのかという話もあって。要は玉石混交で、いろんなものが流れてくる。そのなかで何が本当であるか、自分の目や、自分の考えでつかみ出すということが、メディアとの接し方であり、言論なんだということをたしか宋文洲さんもおっしゃられていました。バーッとみてひっかかるものだけをちゃんと読むとか、情報の取り方もそういう形に変わってきましたね。

楠木 僕は考えるために情報を積極的に遮断していくほうなんです。例えばツイッターにしても、あれは時系列でどんどん溜めていってくれるので、読んだ本とか、見た映画とか、聞いた音楽でいいなと思うのを、メモするために使っています。だからフォローしてる人はほとんどいない。一緒にバンドやっている弟とか。いろんな人をフォローしちゃうとやっぱり見てしまうから。そうすると目に入る情報量が多くなって、その分考えが浅くなるような気がしたんです。どうやったら多くの情報を入れないで済むのかを常に気にしますね。だから、速読術なんて僕にとってはものすごく自虐的な話に聞こえます。速読するくらいなら、本なんか読まないほうがよい。

仕事というのは、やっぱりインプットとアウトプットのセットですよね。人間がアウトプットには限界がありますよ。それなのにそんなに大量な情報を入れて、どうするのかという。むしろ材料だけ積みあがってアウトプットが出てこないみたいな、非常に不健康な状態になっていると思います。でもストラテジストというお仕事では、情報は遮断するほうがいいとばかりもいっていられないですよね。