「役に立つ」VS「面白い」

世の中には「勉強したい!」というニーズがよほど強くあるようだ。たとえば「プレジデント」のような雑誌では、勉強法の特集をしょっちゅうやっている。僕のこの連載も、「プレジデントオンライン」では「勉強法」のカテゴリーに入れられている。勉強法に関する書籍も次々に出てくる。

一橋大学大学院
国際企業戦略研究科教授

楠木 建
1964年東京生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。日本語の著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『知識とイノベーション』(共著、東洋経済新報社)、監訳書に『イノベーション5つの原則』(カーティス・R・カールソン他著、ダイヤモンド社) などがある。©Takaharu Shibuya

なぜこれほどまで勉強(法)ニーズが強いのか。逆説的だが、その理由はほとんどの人にとって「勉強」(ここで「勉強」というのは「知識をインプットする活動」の総称を意味していると思ってください)がヒジョーに苦痛、いやでいやで仕方がない、できることなら関わらずに済ませたい、というものだからではないか。

なにぶん「勉め強いる」である。そもそも勉強が人間にとって自然とできることであれば、勉強法についての話もこれほど盛り上がらないわけで(だから「休憩法」についての雑誌の特集や本はあまりない)、そこをなんとかして勉強したい、勉強しなきゃだわ!というのが世に根強い勉強ニーズのドライバーになっているように思う。

勉強の方法にもいろいろあるが、いまも昔もこれからも、王道はなんといっても読書(書籍という形式をとってなくてもよい。雑誌やウェブの記事にしろ、「書かれたものを読む」を意味していると思ってください)だろう。人間が読書に(継続的に)取り組めるとしたら、その理由には2つしかない。「役に立つ」と「面白い」、このどちらか(もしくは両方)だ。

「役に立つ」というのは、読書が何かの目的のために有効な手段だと思えるということ。「面白い」というのは、そのこと自体にその人にとっての価値があるということ。勉強で読書をするとなると、ほとんどの場合、なんらかの動機や目的がある。読書して勉強しよう、勉強しなきゃという人は、ほとんどの場合、「役に立つ」の方を動機としている。世の中にこれだけハウトゥー本、方法モノの本があふれるという成り行きだ。目的と手段(読書という行為)が分かれているといってもよい。これが小説であれば、単純に面白いから読むわけであって、読書自体が目的となる。目的と手段が分かれていない。

僕は習慣としてジムに通っている。ジムでやることといえば、まず筋トレ。なぜやるのかというと、あまりにも体がブヨブヨになるのを未然に阻止するため。これは「役に立つ」からやる、という例だ。で、筋トレの後、必ずサウナに12分間入る。これは後者の「面白い」に当たる。「面白い」というと語感がちょっとズレるのだが、ようするにそれ自体が「気持ちイイ」ので、ジムに行けば欠かさずに続けている(僕の友人で千葉さんという人がいる。昨日の夜雑談していたら、千葉さんは毎日自宅でスクワットを何百回もやるそうだ。なぜかというと、筋肉を酷使すること自体が最高に気持ちイイらしい。千葉さんにとってのスクワットは僕のサウナ12分に等しい)。

海外に赴任する、英語を使わなければ仕事にならない、だから英語の勉強をしよう、本を読んで勉強しなくちゃ、というケース。ここでは勉強の目的が所与である。手段として強制されている、といってもよい。文字通りの「勉め強いる」だ。
しかし、このようにあからさまに手段と目的の連鎖が意識できることはむしろ稀だ。「この分野の知識を深めたいな」というような漠然とした目的で勉強しようとするのが普通だろう。これがほとんど続かない。漠然とは「役に立つ」と思って本や雑誌やネットの記事を読んではみる。しかし、勉強したところでどうなるのか、目的と手段の連鎖を実感できない。だからすぐに挫折する。

どうすればよいか。話は簡単だ。勉強のための読書それ自体を「面白く」してしまえばよい。あからさまに面白そうなことであれば、強制されなくても自然と知りたくなる。いまが旬の話でいえば、「上場後のフェイスブックの収益モデル」。この手の記事だったら、ちょっと読んでみよう、という気になる人は多いだろう。それ自体がいかにも「面白そう」だからだ。

もっと天然モノで面白いのが「事実」だ。「ニュース」と言ってもよい。「フェイスブックの上場後の株価が予想を大きく下回る!」というような話。何となく読みたくなるでしょう。犬が人にかみついても面白くないが、それが飼い犬だと少し面白い事実になる。人が犬にかみつけば、もっと面白いニュースになる。事実の持つ面白さだ。

ことほど左様に、天然モノの「面白い話」であれば自然とインプットされる。しかし、ほとんどの場合、インプットすべき知識はそこまで面白い話なわけではない。しかも、その手の面白い話には誰でも自然と目を向けるので、誰でも知ることになる。特段の価値はない。

勉強の面白さは、ひとえに知識の質に関係している。上質な知識とは何か。それは「論理」である。論理は面白い。論理の面白さを分かるようになれば、読書は苦にならない。それどころか、自然とどんどん勉強のための読書が進む。習慣になる。

問題は、肝心の「論理の面白さ」が何だかわかりにくいということだ。論理は、事実の面白さとはまったく異なる。わかる人にはビンビンわかるし、グッとくるものがある。でも、わからない人には全然わからない。ほとんどの人は知らないと思うが、大阪に「ザ・たこさん」というバンドがある。彼らの曲に「グッとくる」というタイトルのものがあって、もう文字通りグッときてしまう(ちなみに「バラ色の世界」という曲もイイ)。論理にグッとくるというのは音楽にグッとくるというのと似ている。どうグッとくるかというとちょっと説明しづらい。

前振りが長くなったが、論理の面白さをなんとか言語的に説明しようというのが、今回ウィリアムソンの古典的名著を取り上げた目的だ。