マッキンゼー認知度2%の時代

現在の丸の内仲通り(撮影=編集部)。

1975年の暮れ、その昔、クリスマスパーティ用の余興で、「丸の内のOLさん100人に聞きました。マッキンゼーってなんでしょう」という街角アンケートをやったことがある。

事務所近くの丸の内仲通りにスタッフ総出で繰り出して調査した結果、コンサルタント会社と正しく答えた人は2人しかいなかった。

多かった答えは「洋服を作る会社」。当時、マッキンレーという男用アパレルの広告がよく出回っていた。それから「Mckinsey & Company, Inc.」の「Inc」から「インク会社」と答えた人も10人くらいいた。「キンゼイ報告」(アメリカの性科学者アルフレッド・キンゼイが発表した人間の性行動に関する報告書)などという珍回答もあった。

私が入社した時代のマッキンゼーの知名度はそんなものだった。一方、マッキンゼーからすれば日本はこれからの新興市場であり、欧米流のコンサルティングの需要が増えていくと見込んでいた。

外資系のコンサルティングファームとしては、BCG(ボストン コンサルティング グループ)のほうが日本参入は先行していた(1966年に日本支社を設立)。初代代表はジェームズ・アべグレン。日本的経営の力の源泉が「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」の三種の神器にあることを最初に説いた経営学者として知られていた。

とはいえ、当時のボスコンは基本的には外資系企業の日本進出を手伝っていた。「会社の内情を知られるのは恥ずかしい」「外資のコンサルタントなんて雇ったら会社の秘密がばれてしまう」というのが当時の日本企業の普通のメンタリティで、市場を切り拓くのは容易ではなかったのだ。

しかし、日本の会社と仕事ができなければ日本にやって来た意味がないということで、マッキンゼーでは外資系企業の日本進出のお先棒を担ぐような仕事はあえて封印していた。

日本でもヨーロッパでも現地の有力企業とビジネスするのが参入目的であり、アメリカ企業の出先機関みたいなことは一切やらない——。マッキンゼーにはそうした矜持というか不文律があって、私の感覚と非常にマッチしていた。