秀とおそめの凋落には、大きく分けて2つの側面がある。ひとつは秀の暴走による自滅である。秀は徹頭徹尾天然の接客の天才であり、自分の商売を客観視することがなかった。伊藤の誘いで一も二もなく京都と東京に同時に店を持ち、毎週飛行機で往復するというように、ノリ出すと歯止めが効かなくなってしまう人なのである。

自滅行き暴走列車に乗って

銀座のおそめがあまりに繁盛したので、昭和32年にはもともとの銀座3丁目の店をたたんで、銀座8丁目にバンドが入るくらい広い新店舗を開く。もはやバーではなくクラブという構えの店である。当然、従業員も増やさざるを得ない。おそめはすでに銀座を代表する超一流店になっていた。おそめに行けばいいパトロンが見つけられると見込んだやる気満々の夜の蝶たちが殺到した。遊ぶように店に出ている秀にはもとより人事管理のスキルもやる気もない。雇った女たちがお客とねんごろになって金銭トラブルを起こしたり、パトロンをさっさと見つけて辞めてしまったりと、手痛い裏切りの連続である。秀は金目当てで客に近づく女をなによりも嫌ったが、皮肉なことに移転した後のおそめは秀の意に反してそういう女たちが群がる店になってしまったのである。

一橋大学大学院
国際企業戦略研究科教授

楠木 建
1964年東京生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。日本語の著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『知識とイノベーション』(共著、東洋経済新報社)、監訳書に『イノベーション5つの原則』(カーティス・R・カールソン他著、ダイヤモンド社) などがある。©Takaharu Shibuya

それでも秀の勢いはとまらない。銀座8丁目に店を移した3年後の昭和35年になると、京都木屋町の小さな店もたたんでしまう。御池に土地を買い、おそめ会館という総面積320坪の豪華なビルを建てる。「ブレーキがきかんのどす」と自分自身でも言っているように、このころの秀は自滅行き暴走特急に乗っていた。おそめ会館の1階は、ダンスホールとバンドの入るステージまで完備したナイトクラブ、鶴田浩二や美空ひばりなどの大スターが舞台に立つような華やかさだった。

おそめ会館への拡張計画をこうしとりしきったのは秀の夫の俊藤浩滋である。この俊藤浩滋という人が猛烈に濃いキャラクターで、この人だけでもとんでもなく面白い長編の本が書けるほどの人物である。さすがに秀が惚れただけのことはある人で、俊藤のちに怪物プロデューサーとして『仁義なき戦い』などの任侠映画を何本も大ヒットさせて日本映画の一時代を画している(ちなみに俊藤と前妻の娘がのちの女優の藤純子。彼女は「緋牡丹お竜」で一世を風靡する大スターになる。さらに話はそれるが、藤純子のデビューはまだ女学生のころで、父親である俊藤のコネで、当時大人気だったテレビのコメディ番組「スチャラカ社員」の女子事務員で出演したのがきっかけ。のちの緋牡丹お竜のイメージのかけらもなかった。さらに余談だが、藤純子は僕が認定する昭和の格好イイ女優ナンバー2である。もちろんナンバー1は梶芽衣子。当然ですけど。先だって日活の佐藤社長から梶芽衣子の代表作『野良猫ロック』シリーズの復刻版DVD5枚組をありがたく頂戴し久々に観なおしてみたが、そのカッコよさに痺れにシビれた。当たり前ですけど)。

話を戻す。後の大プロデューサー俊藤浩滋も、このころはヤクザと関係したり、怪しい商売に手を染めたりと、単なるゴロツキのような人でしかなかった。店で好きなように振る舞う秀と裏方として経営をする俊藤という分業体制ではあったが、これはある意味で最悪の組み合わせである。ずさんな経営により、大量の従業員を抱え、金は出て行くばかりだった。怪しげな人物が堂々と出入りするようになり、京都のおそめは急速に失速していく。