今西錦司は日本が生んだ世界的な生物学者である。彼の業績は昆虫学から出発し、生態学、動物社会学をへて極めてオリジナリティーの高い霊長類学を築いた。さらに登山家・探検家としても多くの人々に愛され、多くのプロジェクトを成功に導いた個性あふれるパイオニアだった。本書はこうした今西の波乱に富む生涯について克明に、かつ親しみをもって描いた優れた評伝である。

1902(明治35)年に生まれた今西は、自然と人間が共生する「自然学」を提唱した。自然哲学ともいうべきその精神は、現在でも京都大学を中心とする研究者たちに連綿と受け継がれている。人材育成の達人だった彼の元からは中尾佐助、藤田和夫、伊谷純一郎等の錚々(そうそう)たる学者が輩出した。

私が初めて今西を知ったのは中学校の弁論大会である。このとき演者の中学3年生が、梅棹忠夫著『知的生産の方法』(岩波新書)は中学生の必読書であると論陣を張った。この先輩のレビューは見事なものであり、梅棹を育てた師匠に興味を持った私は今西の著作を読み始めた。

後に、「KJ法」という、今で言うライフハックを提唱した川喜田二郎に出会い、彼も今西の弟子であることに私は驚いた。門下生は優秀な科学者だっただけでなく、今から45年も前に革新的なビジネス書を執筆していたのだ。本書には、こうしたユニークな門人たちとの活き活きとしたやりとりが描かれる。

今西は学者の陥りがちな「タコツボ研究」を嫌い、常にグローバルな視点で科学を推し進めた。それだけでなく、彼は周囲にいる数多くの弟子たちの人生も「プロデュース」していく。たとえば、今西と対談した日野啓三はこう述べる。「単に量的に広いというだけでなく、先生の発想そのものの、柔軟な全体性こそ、先生の最も深い独自性ではないでしょうか。部分と全体、個と種を共に生かす考え方。これはヨーロッパ的な考え方とはちがう」(本書、76ページ)。

それに対して今西はこう答える。「全体とおっしゃいましたけどね。全体論というのがあるんですな。(中略)一時、昆虫をやったり生態学をやったりして、ぼく自身科学者のつもりでおりましたけど、科学はね、窮屈でね。イヤになりまして、もう科学から足を洗ったつもりで、いまおるんです。窮屈なのは大きらいなんで(笑)」(同ページ)。すなわち、彼は現代科学の主流である「要素還元主義」とは肌があわなかったのだ。

今西が生涯の仕事として掲げたパイオニアワークは、地図がまったくない場所に自分で道筋を書き込んでいくことだった。それをヒマラヤなど現実の探検登山だけでなく、知的な世界への探求において「自ら地図を作っていった」のだ。自由でしなやかな発想、さらに行動力と指導力とを持ち合わせた今西錦司こそ、「3.11」後の混迷を深める日本を救い出す人物像ではないかと私は切に思うのである。