二度目の左遷で中国に飛ぶ

<strong>前田新造</strong>●まえだ・しんぞう<br>1947年、大阪府生まれ。70年慶應義塾大学文学部社会学科卒業後、資生堂に入社。資生堂大阪中央販売に配属され、大阪市で勤務。八九年経営企画部課長、九六年化粧品企画部長、97年アジアパシフィック地域本部長、2003年取締役経営企画室長(現経営企画部長)、05年から現職。
資生堂社長 前田新造●まえだ・しんぞう
1947年、大阪府生まれ。70年慶應義塾大学文学部社会学科卒業後、資生堂に入社。資生堂大阪中央販売に配属され、大阪市で勤務。八九年経営企画部課長、九六年化粧品企画部長、97年アジアパシフィック地域本部長、2003年取締役経営企画室長(現経営企画部長)、05年から現職。

ビジネス人生で、30代から40代、いわば課長になるころまでに起きた躓きは、よほど決定的な失敗でもない限り、くよくよすることはない。前回(>>記事はこちら)紹介した前田さんの新商品開発・発売での空振りと左遷、そして再起のように、いずれ「敗者復活戦」の機会はやってくる。だが、40代も後半になってからの躓きとなると、かなり厳しい。役員候補が絞られる年代であり、「復活戦」の可能性は、もうきわめて小さい。でも、前田さんはそんな年齢で二度目の左遷に遭いながら、復活した。

96年6月、49歳で、資生堂の本流中の本流である化粧品企画部長になった。当時、化粧品は、ドラッグストアなどでも売られるようになり、「安売り」の時代を迎えていた。だが、資生堂はそうした新たな販売チャネルを拡大するよりも、新ブランドを次々に送り出し、販売店には在庫が山となっていた。

たしかに、一つ一つのブランドは数十億円の売り上げがあり、積算すれば大きな数字になる。ただ、よく吟味すれば、赤字のブランドが少なくなく、黒字ブランドの利益を食いつぶしていた。電機など「総合」と呼ぶ企業によくある欠陥と同じで、個々の事業は業界3位や4位でも、全部合わせれば「売り上げトップ」になることに、引きずられる。一種の売上至上主義だ。

化粧品企画部長になって、すぐに「ブランドが多すぎる。思い切って減らそう」と提案した。だが、それぞれのブランドを手がけている面々から強い抵抗が出た。上層部にも、予想以上に「守旧派」が多かった。

わずか1年で、花形ポストを解任され、未知の海外事業へ異動する。それも、まだ海のものとも山のものともわからない「中国市場の開拓」が担当。「また左遷だ」と受け止めた。

新しい職場では、全く知らない用語が飛び交っていた。でも「聞くは一時の恥」と質問しまくり、中国市場について勉強しまくる。

中国の古典『荀子』に「遇不遇者時也」(遇と不遇は時なり)との言葉がある。どんな人間にも、いいときもあれば、悪いときもある。大切なのは、不遇のときのすごし方だ、という教えだ。この言葉は知らなかったが、不遇のときにも、心身が自然に力を蓄える方向へ動いていた。

そのころ、資生堂は北京を拠点に生産・販売していたが、伸び悩んでいた。それでも「中国は化ける。化粧品を使う人が、これから爆発的に増えていく」と確信し、上海との二極体制を考える。上海で探した工場用地は、将来を考えて「北京工場の2倍以上」を目安とした。開発途上の浦東地区に、6万7千平方メートルの原っぱをみつけ、迷わず購入すると、本社の役員会で「自動車教習場でもつくる気か?」と揶揄される。

工場の立ち上げでは苦労が続いたが、たまに、和平飯店でストレスを発散させた。有名な「上海バンスキング」の舞台で、大好きなジャズを、70歳以上のベテランミュージシャンが楽しそうに奏でていた。

いま、中国事業は海外部門の柱になっただけではなく、全社の大きな収益源に育っている。そんな中国担当だった4年近くの間も、実は、ずっと「うちはブランドが多すぎる」との思いは、消えていなかった。

「もっと絞り込み、一つ一つのブランドを、輝かせなければいけない。スキンケアでもメークアップでも、新機軸を生み出し、その分野でトップとなって市場を席巻しなくてはいけない。トップランナーの集合体であってこそ、『資生堂ブランド』が輝く」――同じ思いを抱いていた人が、本社にもいた。副社長だった池田守男さんだ。その池田さんが、01年3月、次期社長に内定した。翌4月、前田さんは、化粧品事業戦略本部の推販部長に呼び戻される。

ブランドを打ち切ると言えば、必ず「これをやめると、技術が継承されなくなる」「ファンの客が困る」と反対論が出る。でも、それは、そこの都合だけを考える「部分最適」の思考だ。会社や社員、取引先、そしてお客を含めた「全体最適」を優先すべき「経営判断」ではない。池田さんが、次々に決断を重ねてくれた。百を超えていたブランド数は、4年間で35にまで減る。