村田 亙(専修大学ラグビー部監督)

むらた・わたる 1968年、福岡県生まれ。東福岡高→専修大→東芝→フランスのアビロン・バイヨンヌ(日本人初のプロ契約)→ヤマハ発動機。現役引退後、筑波大学大学院人間総合科学研究科修士課程修了(スポーツ健康システムマネジメント専攻)。

コーチで2年、監督では4年、合わせて6年間、7人制ラグビーの日本代表を指揮してきた。最後の大会が春のワールドシリーズ、東京セブンズ(秩父宮ラグビー場)だった。日本代表は5戦全敗の15位に終わった。強豪相手に波乱を起こすことができなかったけれど、村田亙は「チームのレベルは確実に上がっている」と総括した。

「ディシプリン(規律)」の人である。日本代表の俊足スクラムハーフとして鳴らし、3度のワールドカップ(W杯)で活躍した。日本代表のキャップ(国代表戦出場数)が「41」。40歳まで現役でプレーを続けた。

それは厳しい自己管理と鍛錬の成せる業である。現役時代の体重が75kgと不変だった。酒もたばこも自制し、体脂肪率がひとけた台。いまも起床後と就寝前は必ず、腕立て伏せ、腹筋の各150回を欠かさない。44歳というのに、腹筋が幾重にも割れているのだ。

どちらかといえば、求道者タイプ。だから、選手にもディシプリンを求める。最後の大会での敗因を聞かれると、「一言でいえば、ディシプリンが守られていなかった」と寂しそうだった。ディフェンス網の破たん、1対1のタックルミス、ハンドリングミス……。

それでも、若きエースの18歳、藤田慶和(福岡・東福岡高校→早大)にかける期待はおおきい。チームの中心的役割を任せ、ミスをしてもメンバーから外すことはなかった。

7人制だけでなく、15人制でも史上最年少で日本代表入り。「反省より、思いきりプレーしろ」と言い続けた。

「萎縮したらダメでしょ。一喜一憂する必要はない。武器はスピード。将来を見据え、どんどんチャレンジしていけ、と」

東福岡高校の後輩にあたる藤田に、さらにエールを送る。

「自分のカラーを忘れないでほしい。早稲田にしても、日本代表にしても学ぶべきものはいっぱいある。まだ18歳。成長している過程です。日本のエースになってほしい」

(高見博樹(T&t)=撮影)