日本でのフューチャーセンターの発展は、欧州とは異なる展開で進んできました。欧州のフューチャーセンターが、パブリックセクター中心であるのに対し、日本ではビジネスセクターから広がり始めいています。そしてもう一つの違いが、日本では発展の初期段階から、個別のフューチャーセンターとしてというよりも、「フューチャーセンター間のネットワーク」として同時多発的に連携しながら立ち上がってきたことです。
野村恭彦●イノベーション・ファシリテーター。国際大学グローバルコミュニケーションセンター(GLOCOM)主幹研究員。富士ゼロックス株式会社 KDIシニアマネジャー。K.I.T.虎ノ門大学院ビジネスアーキテクト専攻 客員教授。 ©Eriko Kaniwa

2009年に、私たちが日本でのフューチャーセンター・コミュニティを立ち上げた際、欧州からレイフ・エドビンソン氏とハンク・キューン氏を招き、公開セッションを開きました。その時に彼らが驚いて言ったことが、「欧州のビジネスセクターは、こんなに公共の問題解決に関心を持たない。日本企業の志の高さはすごい」ということでした。このエピソードは、欧州ではパブリックセクター中心であるフューチャーセンターが、日本では企業から立ち上がってきたことの特徴を顕著に表していると思います。

同じ年に、南アフリカやブラジルの貧困地域でリーダシップ開発を数十年にわたり続けてきた、ボブ・スティルガー氏と出会いました。私と彼が初めて会ったのは、フューチャーセンター・コミュニティの交流会に彼がゲスト参加してくれた時でした。彼のその日の言葉が、「全く違う国、全く違うセクターで、君と私はずっと同じ仕事をしてきたようだ。それは、社会や企業を変革していくのは自分たちである、自分たちの持つリソースや知識はそれを行うに十分である、ということをコミュニティ内の人たちに気づかせる場を創っているということだ」というものでした。この言葉で、私の人生は大きく「企業変革」から「社会変革」へと舵を切り始めました。

そして2010年、私は彼らと一緒に、日本独自のフューチャーセンターのあり方を創り出す活動を開始しました。レイフとハンクは、未来を描き出すためのマインドセットや方法論を熟知しており、ボブは「アート・オブ・ホスティング(Art of Hosting)」という「よい関係性を生み出すための対話」のマインドセットと方法論を持っていました。そして私は、10年にわたる知識創造経営の経験から、よい場を生み出すための空間設計と経営手法についての知見を持っていました。