<strong>宗教学者・文筆家 島田裕巳</strong>●1953年生まれ。東京大学先端科学技術センター客員研究員。近著は『教養としての日本宗教事件史』。
宗教学者・文筆家 島田裕巳●1953年生まれ。東京大学先端科学技術センター客員研究員。近著は『教養としての日本宗教事件史』。

新興宗教に入信したと聞くと、ほとんどの人は「いますぐやめろ」と頭ごなしに説き伏せようとするようです。けれど、それは逆効果でしかありません。

信じるものを無理解にも否定されれば、かえって頑(かたく)なになり、話し合いにすら応じなくなります。一部の教団は、親族の反対を計算に入れて布教活動を進めています。家族とぶつかって孤立した信者は、親身になってくれる教祖や教団幹部に頼るようになる。教団を否定するような言動が、取り返しのつかない状況に追い込むきっかけになってしまうんです。

宗教にはまるのは、お酒やパチンコなどへの依存に似ています。夢中になると、仕事や学業そっちのけでお金や時間を費やすハメになります。いくら周囲が忠告しても、そう簡単には耳を貸しません。

とくに宗教には、集団で活動する一体感やめったに味わえない神秘体験など、ほかに代替できない独特の魅力があります。日本人が、宗教活動に熱心な人を特別視するのは、自分たちを「無宗教」と考えているから。それにふだん話題にのぼるのは、荒唐無稽な活動ばかり。サギまがいのカルト教団、ミイラ化した遺体が生き返ると主張する教祖……。新興宗教には、あぶない、怖いというマイナスイメージが定着してしまいました。

もちろん新興宗教イコール「カルト」ではありません。常識的な活動をしている団体がほとんど。ただし、宗教行為は、個人の気持ち次第でサギとされてもおかしくない危険性を持っています。例えば、高額なお守り。もとはただの紙と布ですが、祈祷などによって付加価値がつくわけです。信者には価値があったとしても、関係ない人には、なぜそんなに高いのか理解できません。しかも、信じていた人も何かの拍子に欺だまされているんじゃないか、と思った瞬間、信仰心が猜疑心に変わり、宗教行為がサギに思えてしまいます。宗教行為と「カルト」やサギを見極めるのはとても難しいんです。