「おとぼけ」で斬新CMを守る

大橋洋治 おおはし・ようじ●1940年、満州生まれ。64年慶應義塾大学法学部卒業、全日本空輸入社。88年営業本部販売部長、93年取締役、97年常務、99年副社長、2001年社長。05年より現職。08年より日本経済団体連合会副会長も務める。

何か手違いがあり、やり直しが必要になったという報告を部下から聞くと、「えっ、何のこと?」ととぼけ、修正にも「始めから、そうするのだっただろう」と言ってあげる。相手は心の中で頭を下げ、肩の力を抜いて、失敗を取り戻しにかかる。朝、職場で部下と顔を合わせると、いきなり「今夜の食事は、何にする?」と聞く。意表をつかれて絶句した相手も、瞬時に心が和み、リラックスして仕事に入っていく。

職場は、明るく、伸びやかでなければいけない。ずっと、そう思って「おとぼけ」と「いたずら心」を重ねてきた。

1989年7月、営業本部の宣伝販促部長のときだ。役員会で、新しいテレビCMの案を説明したら、予想外の砲火を浴びた。新CMは、数週間後に迫ったモスクワ・ロンドン便とバンコク便の就航を、盛り上げるために創る。部員たちの発案で、斬新な内容にするつもりだった。

ロンドンのテームズ川の河畔で、2人の男が近づく。人気スパイ小説「007」シリーズで、映画化されて大ヒットした「ロシアより愛をこめて」の主題曲が流れ、あやしいムードをかき立てる。2人は接近し、1人がそっと、メモらしきものを渡す。2人が行き違うと、河畔が大きく映り、「全日空の国際戦略を、キャッチせよ」というセリフが流れ、「ロンドン・モスクワ・バンコク」と新たな就航地が打ち出される。

国際線のCMは、就航先の街の風景や飛ばす飛行機の紹介という、定型的な内容が続いていた。いわば、先行する同業他社の追随だ。部内には「何か、新機軸を出したい」との思いが、たまっていた。自分も、新しいことは大好きだ。だから、007型のCM案にゴーサインを出す。40代最後の年だった。

ところが、役員には前例踏襲型の古いタイプが多かった。「面白くない」との声に始まり、「まさか、もう撮影したりしていないだろうな」とも言い出す。実は、制作は進んでいた。当然だ。放映開始まで、時間がない。でも、そのことは、黙っていた。すると、今度は「最後の『キャッチせよ』だが、お客さまにみていただくのに、命令調で失礼だ。絶対にいかん」とクギを差される。

いろいろ言われたが、「検討します」とだけ答えて、部屋を出た。歩きながら、考えた。すぐに、答えが出る。課長たちに役員会の様子を聞かれると、笑って、ひと言。「大丈夫だ。『キャッチせよ』のセリフを『キャッチさる』と変えるだけでいい」と伝えた。

詳しく話せば、部下たちは動揺する。だから、何もなかったかのように振る舞う。部下たちは、ホッとした表情で作業を進めた。その後も何度か担当役員に呼ばれ、「どう直す?」と聞かれたが、「若い連中の熱意を、大事にしましょう」と訴えると、担当役員も頷いた。一緒に、社長以下の了解を取り付けに回る。

そうした経緯も、部下には黙っていた。不安を抱かせては、いい仕事ができない。組織の長としての役割は、みんなでまとめた案を社内で軌道に乗せることと、職場に「仕事は楽しくやろう」という雰囲気をつくることだ。そう、信じていた。

「喜怒不形於色」(喜怒を色に形(あらわ)さず)――リーダーとして大切な要件は、感情を顔に表さないことだ、との意味で、中国の『三国志』にある言葉だ。辛いことや厳しいことに直面したとき、部下たちの前で苦しさを顔に出してしまうと、部下は萎縮する。喜怒哀楽をいつも表情に出すようでは、部下は上司の顔色をみて仕事をする。大橋流の「おとぼけ」は、この「不形於色」の戒めに通じる。

翌春、就職情報誌の全国大学生人気企業ランキングで、全日空は前年の9位から一気にトップに立つ。就職資料の請求数も、数万通に倍増した。面接で、多くの学生が「あのCMをみて、新しいことに挑戦する魅力を感じました」と話したと聞き、部下と祝杯を上げた。