いまや3人に1人ががんにかかる時代だ。いざ自分が、家族ががんになったら──。3組の夫婦から生きることの喜びを学ぶ。

10年以上にわたる闘病生活のなかで坂田さんが受けた手術や内視鏡治療は27回を数える。通院途中の新幹線のなかでは、喉の調子が悪くて涎がとまらず、車内販売で買ったコーヒーのカップに溜めていた。苦しい思いを逃れようと、ついビールを口にすることもあった。そんな坂田さんががんと向き合うことのできた理由の一つが、「いつか建築現場に戻って働きたい」という強い思いがあったことである。

99年8月に子宮頸がんの手術を受けて子宮を全摘出した河村裕美さんも、「退院して自宅に戻っても、テレビかインターネットを見ているだけ。社会から取り残されるという恐怖感に襲われました。1日も早く職場に復帰したかった」と語る。静岡県庁で地域振興という興味深い仕事に携わっていた河村さんは32歳の若さだった。

同じ県庁に勤める一史さんと結婚して1週間後、たまたま生理不順で行った病院の診察でがんとわかった。そして入籍から1カ月後に、坂田さんと同じ国立がんセンターで手術を受けた。

その手術に当たって、卵子の冷凍保存をするかどうかという重い決断を迫られた。一史さんは「まだ結婚したばかりで、家族の設計のことはあまり真剣には考えていませんでした」と話す。選択すれば人工授精で子供を授かる可能性が残される。しかし、日本では倫理的に認められていない。「そのことにとらわれて生きていくのはいけない。そう考えて諦めました」と河村さんはいう。それを聞いた一史さんが小さくうなずいた。

2人には後遺症として排尿障害や排便障害が残ることがあらかじめ告げられていた。子宮摘出の際にどうしても関連の神経を傷つけてしまうからだ。河村さんの入院期間が予定を超える約50日になったのも、便が腸内にたまって腸閉塞を起こしたため。それからは下剤が手放せなくなった。しかし、便意や尿意を感じることができない。退院してから河村さんは、一時、外に出るのが怖くなった。テレビのスイッチを入れると、がん患者の話をテーマにしたドラマが映し出された。

「がん患者は最後に安らかに美しく死んでいくんですね。健常者は可哀そうにとしか思わないでしょう。でも、がんにかかった人間は自分が味わった傷の痛みがリアルに甦り、死の恐怖にさいなまれるのです。その一方では、やりがいのある地域振興の仕事が、このままでは誰かにとって代わられてしまうかもしれないという焦りも感じていました。仕事に戻れば、がんのことが忘れられるのではと必死でした」

そして、河村さんは退院してから2カ月後の11月に職場に復帰する。一定の時間を決めてトイレに行くなどの工夫をしながら以前と同じ量の仕事をこなしていった。年明けの1月には以前と同じように残業をしている自分がいた。いまでは年に1回は必ず出かける一史さんとの海外旅行が楽しみだ。

(南雲一男=撮影)