大阪の淀屋橋の近くに、適塾がある。緒方洪庵が開いた、蘭学の私塾。福澤諭吉をはじめとする多くのすぐれた門人を輩出し、幕末から明治にかけての日本の発展に重要な貢献があった。

現在は大阪大学が管理する適塾の建物。(PANA=写真)

現在は大阪大学が管理する適塾の建物。(PANA=写真)

適塾を特徴づけるのは、何と言っても凄まじいまでの猛勉強である。福澤諭吉の『福翁自伝』には、その精励ぶりが書かれている。あるとき、諭吉は調子が悪くなって寝ようとした。ところが、枕が見あたらない。そこで、はっと気付いた。適塾に来て以来、勉強して疲れては床にごろりとなって仮眠をとり、起きてはまた勉強するというありさまだったので、枕を使って寝たことがなかったと。

諭吉をはじめとする当時の塾生が、そこまで猛勉強に駆り立てられたのはなぜか。黒船来航以来の騒然たる世相の中、日本は将来どうなってしまうのかという危機感はあったろう。だからこそ、適塾全体でオランダ語の辞書が一冊しかないという状況の中、それこそサッカー選手がピッチの上を必死になって走り回るような猛勉強を続けた。

今、日本は再び危機を迎えている。経済の停滞が20年に及ぶ中、未曾有の震災に見舞われた。日本の社会が作り上げてきたシステムは持続可能なものなのか、私たち自身が疑心暗鬼になっている。

日本人が、再び、猛勉強をしなければいけない時代。しかし、それは大学受験のことではない。いまや、「塾」と言えば入試の準備のためのそれを指す。これは、「私塾」精神の堕落だろう。大学入試に全く意味がないわけではないが、時代を生き抜くための技術、スキルと一致するわけでもない。現代の日本人がもし「適塾」のような猛勉強をすべきだとしても、その「教養の体系」は何であるべきなのか、よくよく見きわめる必要がある。そうでなければ、「世界一」の境地には達することができない。

江戸時代、鎖国していた日本にとって、オランダは西洋文明に接する唯一の窓口だった。「蘭学」は、世界に通じる道筋だった。だから、適塾の門人たちが蘭学に励むことには、合理性があった。

現代において、世界に通じる道はどこにあるか。一つには、疑いなく英語であろう。人類文明の先端を開く「クリエーティブ・クラス」の交流は、英語でやるのが当然である。しかも、日本語への翻訳を介在させているのではスピードが遅すぎる。英語で受け取り、英語で発信する「直接性」が大切な時代なのである。

対象をさまざまな角度から客観的に分析する「批判的思考」(クリティカル・シンキング)も、欠かせない素養の一つである。これが正解だと鵜呑みにするのではなく、選択肢が多数あって正解が判らない状況でも、論理的かつ緻密に考える「思考の筋力」をつける。批判的思考がなければ、多様な人材が行き交うグローバルな世界で頭角を現すことはできない。

そして、「システム」の本質を見抜き、ベストエフォートで構築していく能力。グーグルやツイッター、フェイスブックのような巨大システムを、いかに生み出し、運営していくか。新しいビジネスを創出するうえで、システム思考は欠かせない。

現代の地球社会において「世界一」になるための鍛錬の道筋は何か。それを見きわめて、かつての「適塾」のように寝食を忘れるような猛勉強に没入することが、私たちにできるのだろうか。

きっと、できる。日本人の底力はこんなものではない。学問する情熱の緻密さと強度に、日本再生への鍵がある。

(若杉 憲司=撮影 PANA=写真)