慶長10年(1605)4月16日、徳川秀忠が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府二代将軍となった。翌慶長11年から江戸城増築がはじまり、翌々年の慶長12年には駿府(すんぷ)城の修築工事がなされ、同年7月、家康は駿府に移り住んだ。

秀忠が江戸城で二代将軍として政治を司るいっぽう、初代将軍家康は駿府で大御所政治をはじめた。二頭政治といわれるものだ。江戸にいては秀忠もやりにくかろう、という親心でもあった。

なぜ家康は存命であるにもかかわらず息子秀忠に将軍位をゆずって、駿府に移ったのか。秀忠が凡庸だから、大御所政治という名の「院政」をはじめたのか。

たしかに、日本史上においては、関ヶ原の戦いのおり、中山道ルートで西上した秀忠軍は信濃で真田昌幸に食い止められてしまい、関ヶ原に遅参するという大失態をおかした。だが、その一点だけで評価すべきではない。あとで述べるが、秀忠は、けっして凡庸ではなかった。

家康が存命中に将軍位をゆずったのは、「院政」を敷きたかったからではない。

「江戸幕府=徳川幕府」であることを、全国の大名に知らしめる必要があったのだ。江戸に幕府を開いたとはいえ、いつなんどき、伊達、前田、毛利、島津といった大大名が江戸へ攻めてきて、政権をひっくり返されるやもしれぬ。家康はそう思っていたのだ。

いまでこそ江戸幕府は260年余りも続いた安泰政権と見える。だが家康は江戸幕府が260年余りも続くことなど予想だにしていなかった。家康のなかでは、まだ戦国時代は終わっていなかったのだ。まだ大坂の陣の前のこと。いつまた石田三成のように豊臣秀頼を総大将に担いだ何者かが天下分け目の戦さをはじめるかわからない。家康は戦々恐々としていた。だからこそ、自分の目が黒いうちに「江戸幕府=徳川幕府」であることを決定づける必要があったのだ。

もちろん、自分の後を継ぐ二代将軍は優秀であるにかぎる。

だが長男信康は、とっくの昔に、織田信長の命令で自害させてしまっていた。

次男結城秀康は養子に出していた。

四男松平忠吉は関ヶ原の戦いでの傷がもとで慶長12年に他界。

五男武田信吉(のぶよし)は甲斐武田氏の断絶を惜しんで養子に出していたが、蒲柳の質で慶長8年に他界。