総コスト2割減。感想文に社長の手

<strong>石村和彦</strong> いしむら・かずひこ●1954年、兵庫県生まれ。79年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了、旭硝子入社。97年設備技術研究所硝子担当部長、2000年旭硝子ファインテクノ社長、04年関西工場長、06年執行役員、07年上席執行役員、08年社長兼COO、10年社長兼CEO。
旭硝子社長 石村和彦 いしむら・かずひこ●1954年、兵庫県生まれ。79年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了、旭硝子入社。97年設備技術研究所硝子担当部長、2000年旭硝子ファインテクノ社長、04年関西工場長、06年執行役員、07年上席執行役員、08年社長兼COO、10年社長兼CEO。

2001年、山形県米沢市の子会社で、赤鉛筆を握る日々を送っていた。米沢は液晶などに使われる厚さ1ミリ未満のガラスの生産拠点で、前号で触れたように、立ち上げに出向いて、大変な苦労を重ねた。そこへ、前年10月、46歳で社長として赴任した。

子会社は、創業から8年が過ぎても、赤字が続いていた。自分が当初に開発した製品の10倍近い面積のガラスを手がけるようになり、生産量は圧倒的に増えるはずだったが、全く生産性が上がっていない。

コンサルタントを入れ、総コストを2割削減する目標を立て、それを全職場で徹底してもらう。そのために、改善活動のチームが90近くできた。そのチームごとに、交代勤務の合間を使って、「なぜ、こういうことが必要なのか」「何のためにするのか」を説き続ける。

説明会が終わると、全員に「今日の話について、思うところを書いてくれ」と求めた。感想文は、あとで部長たちが集めて持ってくる。それに「ここは、違う」「それは、こうしたほうがいい」という具合に、赤鉛筆で書き込んでいく。注意書きやコメントが添えられた文書は、部門長を通じて、一人ひとりに戻っていく。総勢約800人。その全員が、毎年少なくとも一度は、社長の赤文字に触れる仕組みだ。赤鉛筆が短くなっていくにつれて、思いが、みんなと共有されていく。

この年、旭硝子は、台湾に同じ液晶向けガラスの新工場を建設する。米沢で苦心してつくりあげた生産ラインを、そのままコピーして据え付けた。ラインを動かす人間から管理者に至るまで、米沢から応援部隊も送った。すると、派遣される従業員から「敵に塩を贈るのか」という言葉が出た。台湾は日本より人件費が低く、コスト競争力があって、米沢の強力なライバルになる。そんな不安感が、工場に広がっていた。そこで、みんなに繰り返す。

「いや、敵は、台湾工場ではない。米国の大手硝子メーカーや日本の同業者だ。もし台湾が傾いたら、会社も米沢も傾いてしまう。だから、とにかく、台湾を強くしないといけない。そして、米沢はその台湾より、常に、一歩でも二歩でも先に行き続けなければいけない」

時間があれば、工場内を回り、掲示板に張り出された改善活動の報告にも、コメントを書き入れた。そばに誰かいれば、いろいろと質問もした。40代前半まで過ごした京浜地区の設備技術研究所で、上司から聞いたことがある。部下に方針を話しても、普通、相手には70%までしか伝わらない。それが、2人目に伝わるときは、さらに70%になるので、半分弱にまで減衰する。その先もどんどん減衰していくから、本当に伝わっているかどうか、最後のところでチェックしないといけない。

掲示板周辺での問答は、その教えを生かした検証だった。そこで返ってくるべき答えがなければ、上司を呼んで「出した指示を、現場にきちんと伝えていないじゃないか」と叱る。部下たちに、いつ、何を、どう話し、どうすることにしたのかを、部長に報告させ、自分に届けさせるようにもした。「仕事が忙しいのでできない」とか「そんなことは、自分には関係ない」という人間がいれば、「君は、ここには要らない。辞めてほしい」とも言い切った。

全員の思いを一つに束ねたい。前進には、ベクトルが合わさることが不可欠だ。ただ、そう思っていた。そこで、もう一つ工夫した。本社にかけ合って、それまで出張で支援に来ていた技術開発部隊10数人を、自分の直接の部下にしてもらう。

他企業でもあることだが、開発の部隊と製造の面々は、かなり仲が悪かった。開発側がいいことを考え、現場でテストをしたいと思っても、製造側が「テストのために、ラインを止めるわけにはいかない」と協力しない。双方のリーダーが相手の事情を理解しようとしない事例は、いくつもあった。そこで、両者を一つの屋根の下に置き、さらに双方のリーダーを入れ替えた。