言いがかりの歴史、時はさかのぼること1614年…

JR京都駅から北東に徒歩約25分。京阪電鉄七条駅下車徒歩約5分の閑静な商工宅地の中に、その寺はある。京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町。16世紀に建立された方広寺である。

Autumn in Kyoto Arashiyama
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さかのぼること1614年、京都南禅寺の僧・文英清韓ぶんえいせいかんはこの寺の鐘に「国家安康 君臣豊楽こっかあんこう くんしんほうらく」と記した。この鐘銘しょうめいに激怒したのは時の天下人として権勢を確立させつつあった徳川家康であった。「国家安康」は家康の二文字を分断して呪うものである——。「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願うものである——。家康はこのように難癖をつけ、豊臣攻撃の格好の口実にした。世にいう「方広寺鐘銘事件」である。

当時、関ヶ原の合戦(1600年)で天下の趨勢を確立させつつあった家康だったが、西国の情勢はいまだ不安定であった。秀吉の三男・豊臣秀頼は大坂城に健在であり、西国の武将や浪人に対して一定の影響力を持っていた。徳川幕藩体制の安泰のためには、豊臣家本体の滅亡は家康の悲願であった。どんな手段を使っても、家康は豊臣攻撃の口実が欲しかったのである。