いまや3人に1人ががんにかかる時代だ。いざ自分が、家族ががんになったら──。3組の夫婦から生きることの喜びを学ぶ。

樋口さんの場合、入院する直前に上司の本部長からいわれた「君の席は空けて待っているからな」という一言が職場復帰への原動力になった。

当時の樋口さんには20人ほどの部下がいた。事務的な仕事なら彼らにも割り振ることができる。しかし、企画管理室長の最も大切な仕事は、新事業を創出して軌道に乗せていくこと。社長から「黒字になるまでには、どの程度の累積赤字を覚悟したらいいか」と質問があれば、即答しなくてはならない。回答次第で、新事業立ち上げの成否が決まることもある。

そんな荷の重い仕事まで部下には任せられない。先の本部長の言葉の裏には「私が引き受ける。下した判断にも責任をとる」との覚悟が存在していたのだ。当然、リスクを抱え込む。「辛抱して待っている」という本部長の気持ちを思うと、「がんを乗り越えてやろう」という思いが湧いてきた。

カップを掴む樋口強さんの手にはいまも感覚がない。
カップを掴む樋口強さんの手にはいまも感覚がない。

ところが、抗がん剤治療を乗り越え、自宅へ戻った樋口さんには新たな苦難が待ち受けていた。抗がん剤の副作用で手足がしびれて感覚がなくなってしまったのだ。食事をするにも箸を握れず、猫のように茶碗に口をつけて食べるしかない。そんな樋口さんに加代子さんは、「あなた、自分で使ったお茶碗を洗ってくれないかしら」といった。

「私も仕事をしていただけに、仕事を通して社会との接点を持つことがいかに大切かわかります。それだけに早く仕事に行けるようになってほしかった。病院から豆を箸でつまむリハビリ運動を指導されていました。でも、それではモチベーションもあがりません」

流しの前に立った樋口さんは、目で見て茶碗をつかんでいることはわかる。しかし、手には何の感覚もない。洗おうとして動かした途端に滑り落ちる。茶碗やコップを何個割ったことか。足元には水溜まりができた。その都度、加代子さんは黙って後片付けをした。