「大和」元乗員の断固たる命令

<strong>廣瀨博</strong>●ひろせ・ひろし<br>1944年、岡山県生まれ。67年神戸大学経営学部経営学科卒業、住友化学工業(現・住友化学)入社。94年総務部長、2001年取締役、03年執行役員、04年常務執行役員、06年取締役常務執行役員、07年取締役専務執行役員、08年副社長。09年4月より現職。
住友化学社長 廣瀬 博●ひろせ・ひろし
1944年、岡山県生まれ。67年神戸大学経営学部経営学科卒業、住友化学工業(現・住友化学)入社。94年総務部長、2001年取締役、03年執行役員、04年常務執行役員、06年取締役常務執行役員、07年取締役専務執行役員、08年副社長。09年4月より現職。

1988年4月、住友化学は大阪・酉島にあった農薬や防疫薬の生産拠点を、移転した。工場から、臭いが流れ出ていたためだ。周辺には住宅ばかりか、小学校がある。でも、当時の技術では、どうしても臭いを止められない。「これ以上、操業を続けることは難しい」と決断した。防疫薬は青森県・三沢へ、農薬は大分県などへ移っていく。

43歳。総務部の課長になって6年がたったときだった。全国の工場周辺から、さまざまな環境問題が伝わっていた。他社のことではあっても、敏感に反応した。「環境問題は、すべてに優先する」。そう思うようになっていたから、自分も「酉島から移転するしかない」と主張した。「環境基点」の発想――その源流は、入社7年目の73年5月に、大分工場で設備の試運転中に起きた有毒ガス流出事故にある。

事故が起きたとき、大阪の農薬事業部にいた。事後処理や再発防止の態勢を強化するチームへ駆り出される。「雨の中、電線に止まっていたスズメがバタバタと地面に落ちた」――そんな話を耳にして、衝撃を受けていた。住民には「ちょっと、喉が痛い」という程度の影響にとどまったが、全国で公害訴訟が続いていた時代。緊張して、大分へ向かう。

再発防止策をいろいろと始めていると、8月初めの夜、今度は倉庫から出火した。一気に燃え上がり、戦時の空襲のように空が真っ赤になって、約5000平方メートルを全焼した。市内は騒然とし、住民たちは不安を訴える。原因究明と安全対策を徹底するために、工場に半年間、地元自治体から停止命令が出た。

短期間に二度もの不祥事に、「もう、大分工場の対応策だけですむことではない。全社で、安全・環境対策を根本的に考えねばならない」との声が広がった。2カ月後、副社長を長とする環境委員会が設置され、総務部の隣に環境部が生まれた。その創設メンバーに選ばれる。前例が全くない部署だけに、苦労が続く。でも、白地に絵を描いていくような充実感もあった。企業が社会的に果たすべき責任、いまで言うCSRへと、思いが向かっていく。

ことし2月28日、ある先輩から電話があった。その人は、大分工場の有毒ガス流出事故や火事の後処理に際し、「なぜ、こんなことが起きたのか」「会社として、どうすればいいのか」ということを徹底的に追求し、安全対策強化を指揮した人だった。戦艦『大和』の元乗組員でもあった名物役員で、すさまじい厳しさ、断固たる命令ぶりで知られていた。たしかに、ものすごく厳しくやられた。でも、その先輩の言うことはまともで、当然のことばかり。であれば、「なるほど」と頷き、自分たちの甘さを反省し、言われたことができるようにするしかない。

学ぶところが、実に多かった。心の片隅に、そんな思いを抱いていたら、前日に社長就任の内定が発表されたのを知り、90歳の身で受話器を取ってくれたという。電話の向こうで、ぽつりと口にしたのは、ただ励ましの言葉だけ。そこでまた、上司というもののあり方を教わった。

役員になるまで総務部門に23年半いたが、その間、商法の改正が重ねられた。改正論議が始まると、初期の段階から方向性をつかみ、対応策を考える。取締役会のあり方、株主の重視、情報公開など、コーポレートガバナンス(企業統治)の改革が続いた。大阪だけではなく東京も「本社」と呼ぶ2本社体制にして、取締役会は顧客や情報が集まる東京で開くようにも変えた。どれも、最終的には社長の判断で決めたことだが、前号で触れた週末に自宅で書き続けた「廣瀬リポート」が、トップの決断の下敷きとなっていた。

総会屋との決別も、その一つだ。日本では、長い間、総会屋が合法的に存在した。どの会社でも総務部が窓口となり、専任の担当者がいた。会社のトップやその家族の不祥事があると、株主総会で騒がれないように仕切っていた。だが、時代は大きく舵を切る。49歳で総務部長になったときには、欧米的な合理性を貫く会社法の時代になっていた。だから、法改正で総会屋が出す刊行物などを購入することがルール違反となると、間髪を入れずに切る。