過働きで消えた右耳の聴力

<strong>近藤史朗</strong>●こんどう・しろう<br>1949年、新潟県生まれ。新潟県立柏崎高等学校、新潟大学工学部卒業後、73年リコー入社。2000年執行役員、02年上席執行役員、03年常務取締役、04年MFP事業本部長、05年取締役専務執行役員を経て、07年より代表取締役社長執行役員。
リコー社長 近藤史朗●こんどう・しろう
1949年、新潟県生まれ。新潟県立柏崎高等学校、新潟大学工学部卒業後、73年リコー入社。2000年執行役員、02年上席執行役員、03年常務取締役、04年MFP事業本部長、05年取締役専務執行役員を経て、07年より代表取締役社長執行役員。

99年、49歳になったころ、ときどき耳が痛くなった。めまいもし始める。前回紹介したように、それまで、とにかく「ワーカホリック」そのもので、仕事に全力を傾けてきた。このときも、プリンタ事業部の部長として、新製品の開発に打ち込んでいた。だから、変調を感じても放っておく。だが、その年の暮れ、突然、右耳の聴力が消えた。手術をしても、戻らない。

放っておいたことを、すごく悔やんだ。でも、もう元には戻らない。諦めると同時に、一つのことが頭に刻まれた。

「自分と同じような思いをする人間を、決して、つくってはいけない」

翌年10月、画像システム事業本部長に就任し、部下に最初に発したメッセージに、その思いが出た。

「今日は早く帰って、奥さんや子どもたちと一緒に食事をして下さい」

部下たちは、上司の「変身」に驚いた。だが、本心だった。開発プロジェクトの進め方も、がらりと変える。みんなが残業をしなくてもいいように、工夫した。もちろん、仕事をするときは徹底的にやらないと気がすまない性格は、変わらない。大学時代から続けている登山でも、失敗して途中で引き返すのは嫌いだ。みんなをゴールまで追い込んで、そして、おいしい酒を飲ませる。それが、リーダーとしての姿勢だった。

でも、聴力を失って考えたとき、「それだけでは、深みがないな」と思い直す。かつて、東急グループの総帥・五島昇氏と西武鉄道グループのトップ・堤義明氏の対談で、大きな対立点があった。堤氏は「いい仕事を続けるために、たまに休みをとってリフレッシュすることも必要だ」と、休みはあくまで仕事の潤滑油と主張した。一方、五島氏は「人生を豊かにすごすために、仕事で糧を得ているのであり、仕事はあくまで手段に過ぎない」と論じた。

よく考えれば、もともと自分も、五島氏のように「遊ぶために働く」が信条だった。それは、ずっと、変わっていない。だから、部下たちに「家族とすごす時間を大事にしろ」という言葉も、自然に言えた。

自らも、大学の後輩だった妻と一緒に、山登りや鮎釣りを楽しんだ。鮎釣りは、20代の後半に、妻の父親に教わった。やみつきになり、プロの釣り師を目指したときもある。毎年、5月の最終の週末に解禁となる岐阜へ出向き、6月1日の神奈川県の解禁日には休暇をとって酒匂川や相模川の上流へ出かけた。まさに「釣りをやるために、仕事をしている」という日々だった。

神奈川県の厚木市に居を構えたのも、当時の勤務先から近かったためだが、釣りに便利だからでもある。いまは、近くの農地を借りて、野菜づくりもしている。だから、本社へ通うようになっても、引っ越す気などなく、「本社は仕事をする場所、厚木は遊ぶ場所」と笑う。

プロジェクトの進め方を変えながら、社員教育にもメスを入れた。執行役員になった2000年、ソフト要員として入社してきた数十人を1年間、仕事から隔離した。それまでは、そこそこの研修を済ませたら職場へ配属していたが、大学で学んだ専門性に応じた教育を、徹底的に重ねさせる。一人ひとりに、社員から選んだ「個人教師」まで付けた。

社内には、強い反対があった。多くが「仕事をさせながら教えるのが当たり前」と思っていたからだ。だが、「人をつくるのが一番大事で、一番大変なこと。教育は、リーダー候補であれ、技術者であれ、徹底的にやらないとダメだ」と押し返す。

ソフトは、ハードと違って目に見えない。見えないから、設計の手法が確立せず、バグ(不具合)が出るのは当たり前というつくり方を続けていた。そんな人間が管理職になると、部下もそれに染まってしまう。だが、それでは、世界での競争に勝ち残れない。だから、「徹夜して頑張るだけでは、NHKの『プロジェクトX』の世界。あれでは、もうダメだ」と繰り返す。かつての近藤流を、自ら否定した形だ。これも、右耳の聴力を失った体験が、もたらしたのかもしれない。