「空気を読まない人」は煙たがられる。しかし私たちは空気を読むべきなのだろうか。ブロガーのフミコフミオ氏は、「『空気を読む』とは、周りの雰囲気に合わせてあえて意見を言わないという、いわば自発的な箝口令。それでは議論は白熱しない」という——。

※本稿は、フミコフミオ『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

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空気は「読む」ものではなく「吸う」ものではなかったか

本来、空気は読むものではなく吸うものだ。いつの間にか空気が「吸うもの」から「読むもの」へ変わってしまっていて驚いている。いつからだろう。記憶を辿ってもちょっとよくわからない。かつて、空気は「吸う」一択だった。読むものになってから、読むのが不得手な僕のような人間にとってはやりづらい時代が続いている。

僕の記憶が間違っていなければ、子供の頃、つまり昭和50年代の終わりから昭和60年代にかけての底抜けに明るかった1980年代、「空気読んでよー」というフレーズを耳にした経験はない。まだ子供だったので空気を読まなければならないシチュエーションにならなかったのかもしれないが、空気はまだスーハーするものだったのだ。

さもなければ、家族や友人が空気を読んで僕を空気読みさせる状況下に置かなかったのだろう。嫌味っぽい子供であった。皮肉屋でもあった。両親からは「悪口と皮肉が服を着ている」と褒められて育った。

友達から「空気読んでよー」と求められても「え? 空気って吸うものだよね。キミは空気を読むって言うけど何か書いてあるのかい? 参考にしたいから、目の前にある空気を読んで書いてあることを教えてよ。さあ! さあ! さあ!」くらいのことはナチュラルに言っていただろう。なんてイヤなガキだろう。ボコボコに殴りたい。