過去のつらい経験を、「トラウマ」という言葉で説明する人がいる。MP人間科学研究所代表の榎本博明氏は「記憶を『トラウマ』や『アダルト・チルドレン』という言葉に落とし込んでいては永遠に立ち直れない。苦い経験をどう意味づけるかによって、過去は暗くも明るくも塗り替えられる」と指摘する――。

※本稿は、榎本博明『なぜイヤな記憶は消えないのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/damircudic)

“トラウマ”という言葉を安易に使っていないか

近頃、「トラウマ」という言葉を安易に使う人が目立つ。実際、私が相手の心の中に眠っている記憶を掘り起こすための「自己物語」を聴取する面接をしていても、トラウマという言葉をしばしば耳にすることがある。そもそもトラウマというのは、心に深い傷を残すような深刻な出来事を指すものであり、ちょっとショックを受けたくらいのことでトラウマになったりはしない。

なかには壮絶な境遇を生き抜いてきて、深刻なトラウマを抱え、それに脅かされている人もいる。だが、自分が現在不幸なのは若い頃の経験がトラウマになっているからだという人たちの話を聞くと、たいていはそこまで深刻なものとは思えない。むしろ、トラウマ神話とでも言うべきものにとらわれることで、自伝的記憶を暗い色に染め上げ、そのせいで人生に前向きの姿勢が取りにくくなっていると思わざるを得ない。

ひと頃広まったアダルト・チルドレン神話も同じだ。アダルト・チルドレンというのは、元々はアルコール依存症の親によって虐待を受け、親に守られて子どもらしく育つことができなかった人物を指す用語だった。

だが、この言葉が広まるプロセスで、親が親の役割をしっかり担うことをしなかったため、幼少期から過度の責任を負わされ、親の顔色を窺いながら負担を掛けないように心がけなければならず、子どもらしい無邪気な幼少期を過ごせなかった人物といった意味合いをもつようになった。

「自分はアダルトチルドレンだから」

親子関係の様相は、じつにさまざまである。親が精神的に未熟だったり、経済的に苦しく稼ぐのに必死だったり、あるいは自分が輝くことで頭が一杯だったりして、子どもにとってよき保護者ではなかったというのは、けっして稀なことではない。

問題なのは、何をやってもうまくいかない自分、どうにも好転していかない現状を前にして、それを不幸な生い立ちのせいにすることだ。

自分の今の暮らしが良くならないのは、アダルト・チルドレンだからだ。生い立ちのせいで、不幸な人生になってしまった。このような因果論を採用してしまうと、将来展望も暗いものにならざるを得ない。過去が悪いから現在が悪い、現在が悪いから未来が悪い。これでは永遠に立ち直れない。

不幸な生い立ちだからといって、だれもがみな不幸な現在を生きているというわけではないし、将来を悲観しているわけでもない。過去の影響、生い立ちの影響はだれもが受けるものだが、そのとらえ方しだいで今が変わり、未来が変わる。

ある40代の女性は、自分もまさにアダルト・チルドレンだという。自己チューで家族に対する愛情のかけらもない自分勝手な父親と、子どもや夫への優しい気遣いはあるものの情緒的に未熟で自分のことで精一杯な母親のもとで育った。幼い頃は父親が怖かったが、小学生くらいになると気持ちの上では見限っていた。