職場の悩み相談に、「嫌なら辞めればいい」と返す人がいる。法政大学キャリアデザイン学部教授の上西充子氏は「親身になって考えてくれる人の言葉ではない。この言葉は相手の思考の枠組みを狭める『呪いの言葉』だ」という――。

※本稿は、上西充子『呪いの言葉の解きかた』(晶文社)の第1章「呪いの言葉に縛られない」の一部を再編集したものです。

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親身になって考えてくれる人の言葉ではない

「嫌なら辞めればいい」という言葉。これは、典型的な呪いの言葉だ。

長時間労働や不払い残業、パワハラ、セクハラ、無理な納期、無理な要求――そういう問題に声をあげる者に対して、「嫌なら辞めればいい」という言葉が、決まって投げつけられる。

たしかに辞めるという選択はある。けれども、辞めてすぐに次の仕事が見つかるとは限らない。次の仕事が見つからなければ、生活は行き詰まる。次にまともな仕事が見つかるとも限らない。だから、辞めるというのは、そんなに簡単に選択できることではない。

にもかかわらず、「嫌なら辞めればいい」という言葉を投げつけられると、その言葉は増幅されて自分に迫ってくる。「その仕事を選んだのはおまえだろう。辞めずにいるのも、おまえがそれを選んでいるからだろう。だったら文句を言うなよ。文句を言うくらいなら辞めればいいじゃないか」と。

だが、ひと呼吸おいて考えたい。「嫌なら辞めればいい」という言葉は、親身なアドバイスではない。親身になって考えてくれる人であれば、あなたが簡単に辞めることができない事情にも目を向けたうえで、言葉をかけてくれるだろう。

では「嫌なら辞めればいい」は、何を目的として発せられる言葉だろうか。

労働者に問題があるかのように見せかけている

「嫌なら辞めればいい」と言われると、「それができるなら苦労はしない」と思ってしまう。けれども、そう考えるときに、私たちはすでに相手が設定した思考の枠組みに縛られているのだ。

「嫌なら辞めればいい」という言葉は、辞めずに「文句」を言う者に向けられている。他方で、その言葉を投げる者は、長時間労働を強いる者や、残業代を支払わない者、パワハラをおこなう者、セクハラをおこなう者、無理な納期を強いる者、無理な要求をする者などには、目を向けない。そもそもの問題は、そちら側にあるのに。

だから、「嫌なら辞めればいい」という言葉は、働く者を追い詰めている側に問題があるとは気づかせずに、「文句」を言う自分の側に問題があるかのように思考の枠組みを縛ることにこそ、ねらいがあるのだ。不当な働かせかたをしている側に問題があるにもかかわらず、その問題を指摘する者を「文句」を言う者と位置づけ、「嫌なら辞めればいい」と、労働者の側に問題があるかのように責め立てるのだ。

不当な働かせかたという問題の本質を背景に隠し、「なぜ辞めないのか」という問いの中に相手の思考の枠組みを固定化しようとする。「嫌なら辞めればいい」は、そのような「呪いの言葉」だ。