人気のソーシャル経済メディア「NewsPicks(ニューズピックス)」。無料会員は400万人を超え、有料会員は9.8万人を突破。運営会社ユーザベースは、法人向けの企業分析ツール「SPEEDA」も提供し、“経済情報界のグーグル”を目指すという。梅田優祐社長に、田原総一朗氏が切り込む――。

コンサル、外資証券の意外と非効率な働き方

【田原】梅田さんは米国のミシガン州でお生まれだそうですね。お父さんは米国で何を?

UZABASE共同経営者 梅田優祐氏

【梅田】父はデンソーの社員で、1980年くらいに米国にオフィスをオープンするときのメンバーでした。私は向こうで生まれて、1歳で帰国。5歳からまたデトロイトで生活していました。

【田原】英語は不自由しなかった?

【梅田】家では日本語でしたが、幼稚園や小学校は英語でした。日本人が少ない地域で、学校にいたアジア人は自分だけ。当時は寝言も英語だったそうです。

【田原】9歳のときに日本に戻られる。

【梅田】小学校3年生のときに愛知県岡崎市に帰ってきました。小学校に入ってまず感じたのは、日本はかっこいいなということでした。米国って学校におもちゃを持っていってもいいくらいに自由なんです。一方で、日本はみんな同じランドセルに同じジャージー。揃っているのが、なんかクールに見えて。

【田原】窮屈に感じなかったの?

【梅田】逆に日本のほうが自由なところもあるんです。米国は非常に大きいから、友達の家に遊びに行くにも親に送り迎えを頼まなくてはいけません。しかし、日本だと歩いて行ける距離に友達がいて、親に頼まなくてもふらっと遊びに行ける。帰国後半年で英語を忘れてしまうくらいに、すっかり日本に順応して楽しんでいました。

【田原】中学や高校ではどんな生活をしていたのですか。部活とか?

【梅田】小学校のころに野球を始めましたが、高校に入ってやめました。野球部は甲子園に行くほど強くないのに、練習は厳しく、土日や朝も部活があった。遊びたい気持ちが爆発して野球部はやめ、アルバイトをしたり、学校帰りにコンビニでたむろする毎日でした。

【田原】大学は横浜国立大学に入られて、アジア中心の一人旅をされたと聞きました。

【梅田】2年生のころから、アルバイトをしてお金を貯めては東南アジアを回っていました。最初に入る国だけ決めて、あとは行き当たりばったり。特に気に入ったのはフィリピンで、ビザが切れて帰国したらまたすぐフィリピンに戻ったりしていました。

【田原】旅ではどんな発見が?