ただし、そんな“遊び”ができたのもホッピーが60年以上飲み続けられてきたからだ。多くの人が「名前は聞いたことがある」というホッピーは歴とした“ブランド”なのだ。

<strong>ホッピービバレッジ社長 石渡光一</strong>●1936年、東京都生まれ。証券会社勤務を経て、67年コクカ飲料(現・ホッピービバレッジ)入社。79年社長就任。2006年全国清涼飲料協同組合連合会および全国清涼飲料工業組合連合会理事長就任。
ホッピービバレッジ社長 石渡光一●1936年、東京都生まれ。証券会社勤務を経て、67年コクカ飲料(現・ホッピービバレッジ)入社。79年社長就任。2006年全国清涼飲料協同組合連合会および全国清涼飲料工業組合連合会理事長就任。

ところでホッピーはいつ誕生したのか。現社長の石渡光一は「当社の創業者である父・秀の話をもとに考えれば、闇市で飲まれたのが最初ではないか……」と語る。終戦直後の食べるものすら、まともには手に入らない時代。東京・新橋の駅前では、朝から焼き鳥の煙がもくもくと立ち上っていたという。

「そこでは酒も売られていました。しかし、よくてカストリ焼酎、工業用メチルアルコールすらあったんです。マズかったと思います。そこで、ノンアルコールビールとして売り出したホッピーで割ると、ビールを飲んでいるような気分になります。飲んべえの知恵のおかげで、飛ぶように売れました(笑)」

その頃の工場は、創業の地である赤坂にあった。ここに宝物がころがっていた。

「思わぬ売れ方をしたものですから、瓶が不足してしまいました。苦肉の策で父が目をつけたのが、進駐軍の兵隊たちが捨てたビールの空き瓶。現在の東京ミッドタウン辺りは、戦後はアメリカが接収しており、空き瓶が大量に廃棄されていたそうです。それを集めてきて、きれいに洗浄・消毒し、ラムネ製造機を使ってホッピーを製造したと聞いています」

この光一の話には、ロングセラー商品の持つ“運”が感じられる。物不足の時代。戦前に購入したラムネ製造設備が東京ではなく長野に置いてあったためホッピーの製造が早くできたこと、貴重品だった瓶が見つかったことなど、条件のうちの一つでも欠ければ、事業の継続的な発展はむずかしかったろう。そして、ホッピーは闇市に集まる人々の「ビールを飲みたい」という欲求を、代替品とはいえ満たした。これが第一次ブームである。

この時代は仕事もない。ホッピーの噂を聞きつけた復員兵の人たちが、売り手を志願してきた。彼らは30本入りのケースを数個背負って、下町の一杯飲み屋やモツ焼き屋に販路を開拓して回った。

こうしてすそ野を広げたホッピーだが、どんな商品にもライフサイクルはある。経済白書が「もはや戦後ではない」と謳った56年、ちまたには様々な飲み物が登場してきた。それがホッピーの売り上げにもマイナスに影響していく。そのままであれば、やがてホッピーも消えゆく道を辿るしかなかったろう。

企業経営には「創業と守成」がある。ホッピーでは、それぞれの役目を初代・秀と二代目・光一が分け合った。光一も、最初から秀の会社に入ったわけではない。光一は、大学卒業後、証券業界の中堅会社に就職する。支店のトップセールスを達成するほどの腕利き営業マンだった。そんな光一が、秀の要請を容れて、家業に戻ったのは67年。金融の世界で8年間もまれた経験は、会社に近代的な経営感覚を持ち込んだ。(文中敬称略)

※肩書きなどすべて雑誌掲載当時

(小原孝博、市来朋久=撮影)