1980年代からテレビの最前線で活躍しつづける芸人・明石家さんま。そんなさんまにも約5年間、低迷していた時期があった。お笑い評論家のラリー遠田さんは、「さんまのキャリアの転換点は、大竹しのぶとの離婚にあった」と分析する――。

※本稿は、ラリー遠田『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の第1章「1992年(平成4年)明石家さんま離婚」を再編集したものです。

試合前、応援に駆けつけたお笑いタレントの明石家さんまさん(左)と笑顔の日本ハムの木田優夫ゼネラルマネジャー(GM)補佐=2018年10月3日、札幌ドーム(写真=時事通信フォト)

「さんまは結婚してからつまらなくなった」

「バツイチですわ。あとでカミさんはバツを2つ付けて出てくると思います」

額に書いた「×」の印を見せながら、明石家さんまは報道陣を前にそう言った。1992年9月9日、新宿・河田町のフジテレビにてさんまと大竹しのぶの離婚会見が開かれた。さんまと大竹が同じ会見場に1人ずつ現れて話をする異例の会見だった。

この離婚はさんまにとって重要な転機となった。なぜなら、世間では「さんまは結婚してからつまらなくなった」と言われていたからだ。離婚は一個人の人生においては悲劇的なことかもしれないが、芸人・さんまにとっては起死回生のチャンスだった。

現在に至るまで約40年にわたってテレビの第一線を走り続けてきたさんまにとって、結婚していた期間が唯一の低迷期だった。この離婚は彼に何をもたらしたのだろうか。

 

憧れていた大竹しのぶと共演

1975年、兵庫・西宮にある家賃7500円のオンボロアパートで、落語家を志す1人の青年が小さなテレビを見つめていた。修業時代の明石家さんまである。

電球を買う金すらない極貧ぶりで、夜になるとテレビの青白い光だけが頼りだった。それでも落語の修行のためにテレビだけは手放さず、1人で家にいるときは演芸番組やドラマを見続けた。

そんな生活の中で心の支えになったのが、NHKの朝の連続テレビ小説『水色の時』だった。当時17歳だった大竹しのぶが主役を務めていた。さんまは毎朝テレビ越しに彼女を見て、密かに憧れを抱いていた。

桂三枝(現・桂文枝)が司会を務める大阪の番組『ヤングOH!OH!』(毎日放送)への出演をきっかけに、さんまはテレビタレントとしての才能を開花させていった。軽妙なしゃべりと甘いマスクで関西の女性ファンからはアイドル的な人気を博した。

1980年代に入り、『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』(ともにフジテレビ系)などに出演するようになってからは、全国レベルで爆発的な人気を博すようになり、好感度ナンバーワンタレントになった。

スターになったさんまにチャンスがめぐってきた。1986年、憧れの存在だった大竹と『男女7人夏物語』(TBS系)で共演することになったのだ。ただ、この時点ではさんまは大竹に恋愛感情を抱いてはいなかった。なぜなら、大竹はTBSのディレクターだった服部晴治と結婚していたからだ。ただ、この頃、2人の結婚生活には暗雲が立ち込めていた。服部が胃がんに冒され、「余命1年」と告げられていたのだ。