かつて日産の「絶対的権力者」として経営を牛耳った、自動車労連会長の塩路一郎。「このままでは会社がおかしくなる」と思った当時の広報課長・川勝宣昭氏は、怪文書を使ったゲリラ戦や“七人の侍”との組織戦を繰り広げた。7年間にわたる苦闘を『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)から紹介する――。

※本稿は、川勝宣昭『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/GoodLifeStudio)

国際的ステータスも欲した強欲さ

日産の経営を蹂躙(じゅうりん)する自動車労連会長・塩路一郎との対決姿勢を鮮明にした石原俊社長に対し、労組側が経営妨害をいっそう過激化させたのは、1981年に入ってからだった。きっかけは、その年の初め、石原社長が英国に工場を建設する計画を表明したことにあった。

日産は国内シェアではトヨタに差をつけられていた。石原社長は、トヨタが消極的だった海外進出で活路を見いだそうと、グローバル戦略で先行する戦略を立てていた。英国進出計画もその一環であり、英国の製造業復活を期していた当時のサッチャー政権も歓迎の意向を示していた。

「この計画は経営権に属する」として、石原社長は労組との事前協議を行わずに推進した。これに労組側は猛反発する。ところが、その裏で塩路一郎は会社側に「自分に英国での立地選定権を与えろ。そうしたら英国進出に賛成する。欧州の労組にも話をつけてやる」と取引を持ちかけていた。そのねらいは、現地の労組に都合のよい立地を選定することで恩を売るとともに、英国にも自分の力を及ぼすことにあった。

塩路一郎は日本の自動車メーカーの労組の連合体である自動車総連の会長職にまで上りつめており、さらに1つ上の「国際的ステータス」を手に入れるという根強い願望があった。まさに私利私欲のそのために日産を“私物化”しようとしていたのだった。

サッチャー×川又会談を仕掛ける

石原社長は当然、この裏取引をはねのけた。ここから、日産の各工場で次々とラインがストップし始める。実態は「安全対策」を隠れ蓑にした山猫スト(組合の正式決定なしに行う法的に不当な争議行為)だった。各工場とも大幅な減産を強いられた。

状況をより複雑にしたのは、川又克二会長が英国進出計画に反対を表明したことだった。川又―塩路連合が復活すると、石原政権の足下が揺らぎかねなかった。

川又会長を翻意させられないか。私は広報室で各省庁との窓口を担当する渉外課長の立場を使い、日産の英国進出を後押ししていた外務省に働きかけ、来日予定のサッチャー首相と川又会長の会談のセッティングを工作し、1982年秋、実現にこぎ着けた。

これは、会談後にサッチャー首相が川又会長に「進出依頼」の書簡を送り続けるという思わぬ成果に結びつき、結果、川又会長は次第に籠絡(ろうらく)され、計画賛成へと傾いていった。