隣の芝生は青く見える。大きな違いはないはずなのに、なぜ「自分は損をしている」と感じてしまうのか。東京大学の宇野重規教授は「社会が平等になるほど、人々はわずかな違いに敏感になる。違いを認めてほしいと思う一方で、違いにいらだつという矛盾を抱えている」と指摘します。宇野教授の中高生向けの講義から一部を紹介します――。

※本稿は、宇野重規『未来をはじめる 「人と一緒にいること」の政治学』(東京大学出版会)の一部を再編集したものです。

グローバル化は平等をもたらしたか

僕が追いかけているテーマのひとつに、「平等」があります。いろいろなことがグローバルになった現在、人々が平等になったという意見と、むしろ不平等になったという意見がせめぎあっている状況だと思うのです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Masafumi_Nakanishi)

アレクシ・ド・トクヴィル(1805‐1857)という19世紀のフランスの思想家がいます。僕は、この人をずっと研究してきました。

みなさんも学校の授業(※)で、ホッブスやロック、ルソーなどは勉強したでしょう。でも、トクヴィルはまだ出てこないんじゃないですか。僕は取り上げるべきだと主張しているのですけれどね。優しそうな顔をした人でしょう。

※本稿は宇野重規氏が豊島岡女子学園中学校・高等学校(東京都豊島区)で行った講義をまとめたものです。

僕はこの繊細で複雑な思想家が好きなのです。フランス革命のとき、貴族だった彼の家族はかなりひどい目にあいました。フランス革命で貴族が激しい否定の対象となったためです。トクヴィルの生まれる前ですが、彼の両親は危うくギロチンにかけられそうになります。そのためにお父さんは髪の毛が真っ白になり、お母さんは精神的にがっくりくるなど家中が暗かったといいます。

そういう家に育ったトクヴィルですが、海外に出て知らない世界を見よう、と考えました。家の中ではみんな暗い顔をしているけれど、外に行ったらわからない。向かった先はアメリカでした。飛行機はおろか、蒸気船さえない時代です。

まだ20代だったトクヴィルはフランスからアメリカに渡り、ニューヨークに上陸した後、中西部まで精力的に見て回りました。

平等になるほど他人に厳しくなる

そして書いたのが『アメリカのデモクラシー』(第1巻は1835年、第2巻は1840年)という有名な本です。この本の中でトクヴィルはおおよそ次のようなことを言っているのです。

これまで貴族は、世の中の貧しい連中を自分と違う種類の人間と思ってきた。貴族は貴族、平民は平民で、まったく違う人間だと思っていた。でも自分自身がアメリカに来てみて、そんなことはないと気づいた。みんな同じ人間で、自分と何が違うわけでもない。これまで人々を囲っていた想像力の壁は急速に崩れつつある。もう貴族だ、平民だという時代ではない。世界はどんどんつながっていくし、人々はどんどん平等になっていく。

ただし、それが良いことばかりではないとトクヴィルは言います。みんなが互いを自分と同じ人間であると考え、その意味でより平等になることは、もちろんそれ自体として良いことです。でも、そのような意味での平等化が進むと、互いの見方にも変化が生じます。

昔は平民というと、「ああ、貴族の人は偉いものだなあ。でも、自分とは違う人なのだから、自分は自分でやっていこう」と思うこともできた。ところが、みんなが平等になるとどうなるか。いままでは違う世界の人だと思っていたのが、考えてみれば同じ人間だと思ったとたんに腹も立ってくる。「なんであの人はあんなにいい思いをしているのに、自分はこうなのか」。平等化時代の個人は、他人に対してより厳しい見方をするとトクヴィルは言うのです。