石田三成(いしだ・みつなり)
1560~1600年。国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)生まれ。幼名佐吉。豊臣秀吉にその俊敏さを認められ、治部少輔に叙任される。秀吉の死後、1600(慶長五)年関ヶ原の合戦で家康に敗れ、京都六条河原で処刑された。

 加藤清正や福島正則を筆頭とする戦国武将には、文字が読めず、また低い身分の出身者であることも多いのですが、それでものし上がることができたのは、持ち前の「武力」ゆえ。しかし、この三成はそうしたパワーに依存しません。

売りは、やはり頭脳。算段と機転がめっぽう利いたのです。有名な「三杯のお茶」のエピソードからもそれを窺い知ることができます。

秀吉が鷹狩りに出た帰りに、たまたま立ち寄った寺にいたのが、小姓時代の三成。季節は夏。喉の渇いた秀吉にお茶を出す際に、一杯目は一気に飲めるようにぬるく、二杯目以降は徐々に熱く濃い茶を入れた。ケース・バイ・ケースでベストな対応をする機転のよさが秀吉の目に留まらないわけはありませんでした。

さらに、九州攻めなど遠征の際の補給の段取りも見事なものでした。本州から九州へ兵糧を運搬するときに九州に集まる全国の大名に対して滞りなく兵糧を輸送してやったといいます。現代でいえば、さしずめ合理的な物流のロジスティックス。極めて高度な戦略を立てて戦をしていたのです。

「兵糧は、この場所にはこれぐらいかかるだろう」

作戦上、兵士たちを餓死させぬよう補給の算段をするといった能力は武力系の武将にはなかなかできなかった。

信長の配下での秀吉のポジションはいわば軍事司令官。ところが、本能寺の変で信長が死んだ後、いよいよ天下の政治をすることとなると腕に覚えのある武将と同じくらい、前出のような“数字的な才能”によって軍を采配するテクノクラート的な武将も重要になります。だからこそ三成は秀吉に重用されたのでしょう。