全国に24カ所ある競艇場。2016年度の売り上げで全国2位に躍進したのが、群馬県の「ボートレース桐生」だ。昨年度も、トップクラスを維持している。管理運営会社である関東開発の会長、笹川和弘さんは「チャレンジし続けないと、競艇場に未来はない。常に次の一手を考えている」と言う。「地方」のハンデキャップを乗り越えるだけでなく、業界の常識を覆す戦略を模索している――。

「10年かけてもできない」無謀な計画

私が役員として関東開発に入ったのは、1993年だった。当時、ボートレースの売り上げは91年をピークに落ち始めていたが、業界全体には「まだ大丈夫」と楽観ムードが漂っていた。しかし、完全なダウントレンドに入っており、今のうちに手を打たねばならないと私は考えていた。

最初に打った手は、日本初のナイター開催を可能にすることだった。多くの人が働いている昼間ではなく、夜に商売をしたほうがいいんじゃないか。仕事が終わった後、ゆっくり楽しんでもらえたら、競艇をギャンブルではなくレジャーとして見てもらえるかもしれない。当時の競艇場には、暗い・怖い・汚いという「3K」の印象がつきまとっていたが、ライトアップして見せ方を変えたら、イメージを一新できる。電話投票の売上拡大にもつながるに違いない。そう思った。

過去に中央団体が、ボートレース浜名湖でナイター開催にトライしたものの、開催には至らなかった経緯があり、関係者には「10年かけてもできないよ」と言われた。ただでさえ危険が伴うボートレースを、夜間に公平かつ安全に行うことができるのか。選手たちは納得するのか。業界の常識から考えると、無謀な計画だった。

慣習や常識に染まっていなくて、よかった

ナイター開催への道のりは険しかったが、前例のないチャレンジは理屈抜きで楽しく、実現の日を夢見て毎日ワクワクしていた。18歳からずっと政治家事務所で働いていたので、業界の経験がなかった。慣習や常識に染まっていなかったので、それが逆によかったと思う。やればできる、できないことはない、反対されても説得してみせる、と考えていた。

乗り越えるべき壁は高かったが、とくに安全面では一切の妥協は許されず、選手会の理解が得られるまで実験を繰り返した。当時としては、最も性能の優れた外国製のライトをつけた。値は張ったが、背に腹はかえられない。10年かけても不可能と言われたナイター開催だったが、関係者の熱意がひとつの力となって、わずか3年弱で初日を迎えることができた。

ナイター初日は、夕方から雲行きが怪しくなって、雨が落ちてきた。ボートレースの場合、雨よりも風が心配だ。風にあおられると、最悪の場合、ボートが舞い上がってしまうからだ。風はそれほどでもなく、何とか初日を無事に終え、心底ホッとした。

ナイター開催に向けて突き進んでいく最中、桐生市長だった日野茂さんとの出会いは印象的だった。産業界出身の方で、「何でも手伝ってやる」と言ってくださり、大きな勇気をもらった。志を持ってチャレンジしていると、必ずこのような恩人が現れるから不思議だ。日野さんがいなくなったあとの桐生市と激しく衝突するなど、このときは知る由もなかった。