毎年5月、200万人が訪れるという東京・浅草の「三社祭」。神輿(みこし)の担ぎ手の中心は、地元の人ではなく、全国から集まる「やんちゃ」な人たちだ。その騒乱ぶりは激しく、最終日に行われた「神輿乗り」では逮捕者が出たこともある。宗教社会学者の岡本亮輔氏は、「三社祭が観光資源化したことで、神輿の担ぎ手に地元以外の人が増え、軋轢が生まれている」と指摘する――。
三社祭のハイライト「本社神輿各町渡御(ほんしゃみこしかくちょうとぎょ)」(写真=時事通信フォト)

200万人近くを集める人気の「三社祭」

5月、東京は祭りの季節だ。祭りの到来を告げるのは、11~13日の下谷神社(台東区)。そのすぐ後の15日には神田明神(千代田区)だ。25~27日の週末には湯島天神(文京区)の大祭がある。そして、その間の18~20日に行われるのが浅草・三社祭(台東区)だ。

浅草寺と比べるとちょっと影が薄いが、三社祭を主催するのは浅草神社だ。雷門から仲見世を歩いて行くと浅草寺の伽藍(がらん)が正面にそびえるが、浅草神社はその右手の少しだけ奥まったところにある。

三社祭は最盛期には300万人近く、現在も200万人近くを集める日本最大規模の祭りだ。一方で、2000年代に入ってから、神輿の上に乗る「神輿乗り」をする人々が問題になっている。過去には逮捕者も出ており、批判は出て当然だろう。だが、より長いスパンで三社祭を見てみると、「祭りは神事なのか、興行なのか」「祭りは地元だけのものなのか」といった問題が控えていることがわかる。

明治以前は「ちょっと大きい祭り」程度

明治期以前、浅草神社は三社権現という名であった。「三社」は、浅草寺の縁起にも関わりのある3人を指す。伝説では、檜前(ひのくま)浜成(はまなり)と竹成(たけなり)という漁師の兄弟が隅田川で漁をしていると、観音像が網にかかった。これを地元の知識人である土師真中知(はじの-まつち)に見せたところ、ありがたい聖観音像だと分かり、それを祀(まつ)ったのが浅草寺の始まりだとされる。そして真中知の死後、浜成・竹成と合わせて祀ったのが浅草神社である。

伝説では、観音像発見は推古36年(628年)とされるが、仏教伝来から間もない1400年近く前というのはさすがに古すぎる。浅草神社公式ウェブサイトにも「これは少々無理のよう」とある。だが東京大空襲後の発掘調査で、浅草寺創建は平安から奈良にさかのぼることが判明し、関東最古級の歴史を持つと推測されている。

明治期の神仏分離以前、神道と仏教は混交していたため、三社祭も当然浅草寺の祭りとして行われていた。この頃は、少し規模の大きな祭りという程度の存在だった。そして神輿を担ぐというよりも、各町内が繰り出す山車(だし)がそれぞれ豪華さを競いあっていたようだ。したがって、現在の三社祭の直接の源は明治以降と言ってよいだろう。