一部の不満分子が会社の空気を悪くする。会社勤めのビジネスパーソンなら、大なり小なり、巻き込まれた経験があるだろう。自動車メーカーや航空機メーカー向けに特殊なバネを生産・販売する三協精器工業(大阪市)もそうだった。無駄な残業を繰り返すベテラン社員が幅を利かせる状況に、赤松賢介社長(当時、専務)が取った行動とは――。

この若造が! やってられへんわ!

私が会社に入って一番苦しんだ時期――。それは、今から約16年前のことだった。

創業者である曽祖父は職人だったが、父は営業系の経営者だった。経営者が営業に光を当てすぎると、製造現場は面白くない。すると、威張り出す「牢名主(ろうなぬし=牢屋を取り締まる囚人の代表)」のような人間が出てくる。ベテラン社員の中には、午前中はボーッとしているくせに、夕方から張り切り出す者がいた。残業代をたっぷり稼ぐ、高給取りだった。私が社長になったら、青天井の残業制度を見直そうしていると知ったベテラン社員は、「この若造が!」と敵対心をむき出しにしてきた。

「会社の寿命30年説」の意味がよくわかった。世代交代を乗り越えられない会社はダメになるのだと。私は彼らにかまわず、固定残業代に変更した。彼らは「やってられへんわ」と言い残して会社を辞めていった。

ベテラン社員の大ボスは、中ボスや小ボスたちも道連れにした。会社を困らせてやろう、私を苦しめてやろうと思ったのだろう。もしかしたら、「自分たちがいないと現場が回らない。慰留されるに違いない」と踏んだのかもしれない。しかし、私は「残念です」とだけ伝えて、引き留めなかった。

あとは「野となれ、山となれ」の心境だった。自分の信念にしがみつくしかなかった。彼らに個人的に恨みがあるわけではない。私は、会社をフェアにしたかっただけだ。

一番苦しいとき、うれしいことが降ってくる

主力がごそっと抜け、製造現場に残ったのは嘱託のシニア社員たち、私と同期入社の10年目社員、若手社員だけだった。「がんばってアカンかったら、会社が潰れてもいい」と覚悟した。ここからは本当に苦労した。ただ、目の上のたんこぶがいなくなったことで、若手社員たちが奮起してくれた。彼らは、去っていったベテランたちに腹を立てていたのだ。やりたくもない残業に付き合わされ、自分の時間を奪われていたからだった。

製造現場の人員体制が崩れ、一人当たりの仕事量は急激に増えた。不本意な残業をさせられていた若手社員たちのモチベーションが、そこでハネ上がるなんて、想像もしなかった。24時近くになると、「終電に間に合わんから帰れよ」と私が声をかけるのだが、若手社員たちは「会社に泊まっていいですか?」と言ってくれた。ほぼ毎晩のことだ。奮起してくれるかもしれないとは思っていたが、ここまで言ってくれるとは思っていなかった。心の底から、うれしかった。

社員のみんなにはたいへんな負担をかけてしまったが、私は毎日が楽しかった。製造現場に栄養ドリンクを差し入れたり、夕飯代を渡したりして、全員でピンチを乗り越えた。まるで、お祭りのようだった。社員一人ひとりが、自分の意思で、自分のやり方で、本気で仕事をした結果、業績は回復した。

一番苦しいとき、うれしいことが降ってくる――。これは、私の人生観になった。