評論家の西部邁氏が、多摩川に入水し、「自裁死」を遂げた。その訃報を美談として報じるメディアがある。だが日本に一時帰国していた欧州在住ジャーナリストの宮下洋一氏は、そうした報道に違和感を覚えたという。6カ国での取材をもとに『安楽死を遂げるまで』(小学館)を上梓した宮下氏が、日本人の「死に方」を巡って問題提起する――。
2000年11月15日、参院憲法調査会で参考人として意見を述べる評論家の西部邁氏(写真=時事通信)

こうした趣旨の発言をするのは日本人だけ

評論家の西部邁氏が1月21日、多摩川(東京都大田区)に入水し、「自裁死」した。80歳を目前とした西部氏だったが、いまだ舌鋒は衰えず、第一線で言論活動を続けていた。一方、4年前に妻に先立たれ、利き腕の神経痛にも悩まされていたという。

常に自分の信念に基づいて行動してきた同氏の決断だけに、その死に方は尊重したいと思う。ただし、西部氏が生前、こんな言葉を口にしていたという報道をみて、少し立ち止まって、この問題を考えてみようと思った。

「家族に介護などで面倒をかけたくない」

昨年6月刊の『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社)でも、以下のような記述がある。

<近親者を含め他者に貢献すること少なきにかかわらず、過大な迷惑をかけても生き延びようとすること、それこそが自分の生を腐らせるニヒリズムの根だ>

「家族に面倒をかけなくない」「迷惑をかけてまで生きたくない」。この2年間、私は世界6カ国で安楽死の取材を重ねてきたが、こうした趣旨の発言をするのは日本人だけだった。

なぜ日本人は「人の視線」を気にするのか

昨年、安楽死を希望する日本人女性に会った時のことだ。彼女は、外国人の安楽死が唯一認められるスイスに渡って、死を遂げることを計画していた。彼女は重病を患っていたわけではないが、精神疾患を抱えていた。その病を抱えながら、今後生きていくことに対し、苦痛を覚えているようだった。安楽死の動機を尋ねた私の問いに対し、目に涙を浮かべながらこう話した。

「より良く生きたい気持ちはないし、人に迷惑をかけたくないので……」

脚本家・橋田壽賀子氏も、著書『安楽死で死なせてください』(文春新書)の中で、こう書いている。

<人に迷惑をかける前に死にたいと思ったら、安楽死しかありません>

なぜ、日本人は自らの死を決断するときに「人の視線」を気にするのだろうか。そして「迷惑」という言葉を口にするのだろうか。こうあるべきという「前提」によって立たず、自らで思考し続けた西部氏すら、こうした言葉を口にしていたと聞いて、ここに日本の国民性を解く鍵があると私は思った。