江戸時代の農村は日本史上、もっとも子育てしやすい環境だったというが「勉強しなさい!」と活を入れる教育ママはいたのだろうか? 子育ての歴史研究者が意外な事実を明かす。

子供を「大人4人」が教育し世話をした

「教育ママ」を定義するのは難しいですが、1つには「近代化の産物」といえるでしょう。身分制度が揺らいで流動性が高まり、多くの人が、社会的な地位を上げることが可能になった。競争社会に参入する人が増え、勉強すれば勉強するほど、カネや権力を手に入れられると考えることのできる時代が来たのが近代という時代です。

写真=iStock.com/Ababsolutum

さらに、働き方という観点もあります。明治時代になると、人々が都市に集住し、父親が企業や役所に働きに出るかたわら、母親が専業主婦として家事・子育てを一手に引き受けるようになった。そうして「ワンオペ母親」が誕生し、子供を厳しく教育し、躾を行う「教育ママ」が広まっていったといえるのです。

それでは、江戸時代の人々は、近代以降に比べて教育を疎かにしていたのでしょうか。また「教育ママ」はいなかったのでしょうか。そうではありません。教育そのものの目的が違っていたというのが正しいでしょう。

周知の通り、江戸時代は身分・階級が固定化されていました。ただ、一定の幅の中では能力のあるものが出世し、下級士官がより高い地位の官吏になったり、学者として取り立てられたりすることもありました。ですので、武士の家では、わが子の成功を願って、論語だったり剣術だったりの教育に熱心になる親がいましたし、「教育ママ」もいたかもしれません。

しかし、基本的には、特に農村では「親の家業を継ぐ」ことが当たり前であり、そのための教育がされていたのです。

平和が長く続いた江戸時代の農村は、日本の歴史上でも例外的といってもいいくらい、子育てがしやすい環境にありました。どこの家庭も子供は1~2人で、息子が結婚して嫁を迎え、家に残る直系家族が多かった。娘はよその家へ嫁に行く。家族の形態としては、(長寿に恵まれた家では)祖母と祖父、父と母、子供が2人、という形が一般的になります。つまり、5~6人の家族だと、子供を見るための大人たちが4人いることになります。教育の手綱の引き具合に余裕があったんです。

さらに、当時は村落という共同体が一体になって、子供を育てていた。もちろん、村落の中で監視されるような息苦しさもあったでしょう。しかし、子供をしっかり育てないと、という規制力が働くという利点もありました。