『世は〆切』は山本夏彦の名エッセイ。締め切りに追い立てられるから、作家は名作を生み出せる。これは人類一般の法則なのだ。

人類は怠け者だから世界中に広まった?

人類はまだ見ぬ新たな土地、新たな獲物を求めて、アフリカ大陸から全世界へ移動拡散したといわれているが、最近どうもこれは違うのではないか、という気がしている。

鹿島 茂(かしま・しげる)
1949年、横浜市生まれ。東京大学大学院博士課程修了。専門は19世紀フランス文学。『馬車が買いたい!』をはじめ著書は100冊以上。

現代の移動する民、ロマ族(ジプシー)の研究書によると、彼らは仲間うちや地元住民との間で小競り合いが起こると、面倒ごとを避けて、さっさと移動してしまうという。争いを仲裁する上部政治組織がないことが主な原因らしい。そこで思うのは、人類が世界の5大陸を制覇することができたのも、果敢なフロンティアスピリットのゆえというより、「なんだか面倒だからよそへ行こうか」という安易に流れやすい性質のせいではないかということだ。

そもそも人間は、基本的に怠け者にできている。自己鍛錬、自己規制という概念が生じたのは、ようやく近世に入ってからで、歴史的には非常に新しいイデオロギーである。

その頃ちょうど普及しはじめたのが機械式時計で、人々は太陽の出入りではなく「24時間」で自らを規制するようになった。時間の意識と勤勉や自己鍛錬はワンセットなのだ。

さて、現代資本主義社会の絶対的な戒律といえば「納期」だ。文筆家にとっては「締め切り」である。

納期や締め切りは本来、怠け者の人類にとってストレスのもとであり、できれば逃げ出したい面倒ごとだ。私も締め切りに追い詰められて、逃げ出したいと感じることはたびたびある。しかし、納期や締め切りに追い詰められ、ストレスがかかるからこそ「いい仕事」ができる、というのも多くの人が経験する事実である。それはどんなメカニズムで生じるのだろうか。

何であれ考えを深めるために必要なのは、2つ以上の概念や発想、切り口の存在だ。思考は1つの概念だけでは働かず、対立する概念を必要とする。いい例が一神教の善悪二元論だ。

一神教は「一神」といいながら、神に対峙する存在、すなわち悪魔を創り出した。善なる神にすべてを委ねたのでは抽象的世界観は生まれない。神か悪魔か。抽象的思考には、最初の前提と対等に並び立つ2番目の概念が不可欠なのである。

人はふだん、1つの切り口から物事を見ているが、1つだけに安住すると思考が深まらない。「専門バカ」という言葉があるが、あれである。

その点、本当に創造的な業績を残す専門家は、専門外の雑学や教養を身につけ、無意識のうちに2番目、3番目の概念に思い至る。

数学者のアンリ・ポアンカレ(1854~1912)は名著『科学と方法』のなかで、ある数学的命題を証明する際、いくども中断して時に思索を忘れてしまった末に、忽然と解が浮かんだ経験を思い返し次のように描写した。

「まず第一に注意をひくことは、突然天啓が下った如くに考えのひらけて来ることであって、これは、これにさきだって長いあいだ無意識に活動していたことを歴々と示すものである」(吉田洋一訳)

考えあぐねた末に、思考をいったん止めてぼーっと過ごした後にアイデアがひらめくというのは、我々でもよく経験することである。

1つの切り口だけで物事を見ていると解決策が見つからない。ところが、ある時間を経て、無意識下に沈殿していた2番目の切り口が浮かび上がってくると、とたんに新たな視野が開けてくるのである。

そのタイミングはいつか。自然に任せるだけでは、なかなか2番目の概念は浮上しないだろう。それには通常以上に集中することが必要であり、本来的に怠け者である人間には、何もないのに集中することは難しいからだ。

そこで役に立つのが、納期や締め切りといった「外からの強制」だ。自発的にはなかなか集中できないが、他人から強制されれば集中できる。