私たちの生活は、戦争で発展した技術のうえに成り立っている。多くの技術は戦争の影を背負っているのだ。牧歌的なイメージのある「トラクター」もそのひとつ。「戦車」はトラクターから生まれた。京都大学の藤原辰史准教授は、「人と機械のかかわりを考えるためには、トラクターの歴史が役に立つ」という。ここでは、トラクターがふたつの世界大戦にもたらした影響を紹介しよう――。
日本の稲作にも当然欠くことのできないトラクター。

※以下は藤原辰史『トラクターの世界史 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中公新書刊)の第3章「革命と戦争の牽引――ソ独英での展開」からの抜粋です。

トラクターの歴史を語るうえで避けて通れないのが、戦争である。

トラクターはどうしても牧歌的なイメージが先行する。たとえば、デイヴィッド・リンチ監督の映画『ストレイト・ストーリー』(1999)はそんなイメージのうえに成り立っている。500キロメートル離れた場所に住み、心臓発作で倒れた兄に、麦わら帽子の老人が、1966年製のディア&カンパニー社の小型トラクターに乗って会いに行くロードムービーだ。この映画は、時速8キロという遅さがアメリカの広大な景観とマッチして観客をほのぼのとした気持ちにさせるのだが、そんなトラクターは仮の姿にほかならない。

第一次世界大戦は、1914年の夏に開戦した。ドイツの皇帝ヴィルヘルム二世(1859~1941)は、クリスマスまでには家に帰れると兵士に伝えたはずだった。しかし、9月にはすぐに膠着状態に陥ってしまう。西部戦線を挟んで、連合国と同盟国がお互いに塹壕を掘り、英仏海峡からスイス国境にかけて800キロメートルもの長い戦線が構築されてしまう。塹壕を掘ったのは、機関銃や砲弾を始め、火力が強すぎたからであった。隠れながら少しずつ前に進むスタイルは、戦争の終わりよりも、停滞を先にもたらした。塹壕の向こうには有刺鉄線を張り巡らし、1メートル進むだけでも膨大な死者を生み出した。

そんな状況を打開するために、いくつかの科学技術が用いられた。一つは、毒ガスである。ドイツは、窒息剤であるフォスゲンや、糜爛剤であるマスタードガスなどの毒ガスを開発し、敵の塹壕に向けて放った。毒ガスは兵士たちの戦意を喪失させるばかりでなく、呼吸を止め、皮膚を爛れさせた。

戦車もその一つであった。まず、イギリス陸軍工兵中佐アーネスト・スウィントン卿(1856~1951)が開発を試みた。彼は、西部戦線で物資運搬に利用されていたアメリカのホルト社の履帯トラクターからヒントを得た。ホルト社は、すでに述べたように、キャタピラー社の前身の一つにほかならない。これを戦場用に改造したものを投入すれば、塹壕を踏み越え、湿地帯も多かった西部戦線を突破できるのではないか。スウィントンはそう考えたが失敗に終わる。代わりに戦車開発の主導権を握ったのが当時海軍大臣だったウィンストン・チャーチル(1874~1965)であった。チャーチルは、海軍航空隊の提案である空港警備のための「陸上軍艦」開発の提案を受け、1915年2月に陸上軍艦委員会を設立し、開発が始まった。