徳岡邦夫

1960年生まれ。「吉兆」の創業者・湯木貞一氏の孫。高校卒業後、僧侶生活を経て、本格的な料理修業を開始。95年から「京都吉兆」嵐山本店の料理長に。産地偽装問題などで廃業した「船場吉兆」の影響は極めて限定的。「湯木貞一が創業以来、80年間のお付き合いの中で培った信頼関係のおかげです」という。経済学者榊原英資氏に自然環境の重要性を説く。「経済が破綻し、お札が紙くずになることよりも、食の世界が破綻するほうが本当は恐ろしい」。


 

吉兆にお客様がいらして、感動で涙をボロボロと流してもらうにはどうしたらよいのか考えています。京大に行って「食べたら感動して涙が流れる成分はないか」と聞いてみたことも。当然そんなものはありませんでした。では、どうすればよいのか。

僕は年に数回、従業員を集めて「食材コンクール」を行っています。目的は「お店で使う食材をみんなで選ぶため」でしたが、今では従業員教育として欠かせないイベントです。米なら新米の時期に、5種類ほどをブラインドで味見します。その中から各人がおいしいと思うお米と選んだ理由を発表しますが、「米が艶やかで香りがよい」「噛んだときの粘りと喉越しがよかった」など、おいしさの観点はまさに百人百様。食べ物のおいしさを決めるのは味覚だけではないと、皆、理解するのです。

人間は、料理の味を舌だけで判断しているわけではありません。料理の色彩や香り、器を通して手で感じる温もり、噛んだときの音や食感など、五感のすべてで感じながら、過去に食べた物の情報と比較して、総合的に判断しています。五感の中でも一番情報量が多いのは視覚です。過去に食べたことがあれば、見ただけでそれがおいしいかどうか、ほぼ判断できますから。

次は嗅覚。僕がだしの加減を判断するときも、香りで味の見当をつけます。味見はしません。肺の中の空気を一旦吐き出してからだしの香りを吸い、鼻や口の中いっぱいに充満させ、目を閉じて静かに感じるのです。これは特殊技能ではありません。五感で経験してきた味覚情報を理論的に分析して整理し、記憶し、必要な場面で引き出せる訓練をすれば誰にでもできます。料理上手は、情報処理能力を鍛えている。

実は昨年ミシュランから掲載のオファーがありました。知らないうちに何度もお店にいらしていただいたようで「ぜひ掲載したい」とおっしゃっていただきました。誠に光栄なことだったのですが「『東京吉兆』が辞退したのに、うちが受けるわけにはいかない」と母に反対され、お断りしました。すると、すでに掲載を決めていた他の京都の料亭も次々辞退されてしまわれたそうです。

でも、次にそんなお誘いがあったなら、掲載していただこうかとも思っています。海外に行ったときの肩書も「星付きレストラン料理長」のほうが、注目度が高いようですし(笑)。ただ、ミシュランの評価が絶対とは決して考えていません。チーズや肉を食べて生活してきたフランス人が、鰹と昆布の食文化を簡単に理解できるとは思えないからです。

僕は料理を通してお客様の五感を刺激し、幸せと感動を与えたい。それこそがどんなに権威のある評価よりも価値があると信じます。