発泡日本酒「すず音」や低アルコール酒「ひめぜん」などで知られる蔵元「一ノ蔵」。一ノ蔵は、宮城県の4つの酒蔵が一つになって生まれた企業で、設立以来4社の合議制で運営している。2011年の東日本大震災という大きな激動を乗り越えた一ノ蔵は、今後どのような未来を目指すのか?
一ノ蔵 代表取締役社長 鈴木整氏(左)とアイディール・リーダースのエグゼクティブコーチ・丹羽真理氏(右)。

日本酒好きに高く評価されている宮城県の蔵元「一ノ蔵」。設立以来、跡取り4人が順番に数年ずつ社長を務め、4人が任期を終えたら次の代に譲るという「合議制」で経営を行っている。

2011年に起きた東日本大震災は、仕込み蔵の倒壊、作業中の大量な米や麹の浸水・消失など、一ノ蔵にも大きな被害を与えた。常務取締役として復旧に奔走し、2014年から代表を務めているのが鈴木整(ひとし)社長だ。一ノ蔵は震災の痛みを乗り越えて復興し、現在は特定の純米酒の売上金全額を、被災した子どもたちに寄付するなどの活動を行っている。

対話によってさまざまな課題を解決し、目標や夢の実現を目指すコーチング。その中でも経営層に特化した「エグゼクティブコーチング」を、実際に企業経営者と行う本連載。今回は、鈴木社長とアイディール・リーダースの丹羽真理さんのセッションの様子をお伝えする。震災を乗り越えた一ノ蔵は、次にどこへ向かうべきなのか。その未来を示してくれたのは、コーチが手渡した、あるアイテムだった……。

酒蔵4社が統合した理由

一ノ蔵の「すず音」。グラスに注ぐとシュワシュワと炭酸の泡が立ちのぼり、鈴の音を奏でているようであることから名付けられた。

【丹羽】私は日本酒が大好きで、一ノ蔵さんの発泡清酒「すず音」も最近おいしく頂いたばかりです。でも、そのメーカーの代表が持ち回り制とは知りませんでした。

【鈴木】お飲みいただき、ありがとうございます。一ノ蔵は昭和48年(1973年)に生まれた、酒造メーカーとしては非常に若い会社です。この年は日本酒が最も売れた年であり、米の自由化が始まった年でもありました。大きなメーカーにとっては、それまで制限されていた、米の共有割り当ての縛りがなくなって自由に生産できるようになったため、ブランド力も生かし、販売の全国展開を始めた。その結果、東北の酒造メーカー各社は大打撃を受けたのです。

この苦境を何とか乗り越えようと、当時赤字に苦しんでいたメーカー4社が統合し一ノ蔵は生まれました。手作りに徹底的にこだわり、当時の日本酒の級別制度に挑戦する商品「一ノ蔵無鑑査本醸造」を販売しました。

この制度は平成4年(1992年)に廃止されていますが、当時は国税庁の酒類審議会の専門家による「官能による判断」という曖昧な基準で級別が分けられ、高い等級のものには高い税金が課せられていました。これに抵抗する意図で、あえて商品を審査に出さず二級酒として販売し、「本当に鑑定されるのはお客さま自身です」とラベルに明記したのです。

私の父親の代の話ですが、そういったこだわりや心意気に共感を頂いて、現在の一ノ蔵があるのかなと思います。亡くなった父はいつも私に「日本酒業界は下りのエスカレーターだ」と言っていました。何もしなければ、落ちて消えていくしかない。駆け上がって登って行かなければならない、と。

国税庁の酒類審議会に出さず、二級酒として発売した「一ノ蔵無鑑査本醸造」。写真は当時の広告(一ノ蔵のパンフレットより)

【丹羽】そんな経緯があったのですか……今風に言えばとても「ベンチャー」的であったのだと思います。そして、宮城といえばやはり震災で大きな被害を受け、そこからの復旧も大変なご苦労があったのではないでしょうか。

【鈴木】そうですね。震度6強の揺れで仕込み蔵は大きな被害を受けたのですが、貯蔵タンクは幸いにも無事でした。残された原酒の販売で、なんとか経営を立て直そうと計画していたところに、いわゆる「自粛ムード」が広がってそれも頓挫してしまったんですね。お花見シーズンだというのに注文が全く入ってこなかったのです。これは蔵を畳むことになるかもしれない……という危機感がありました。

そんな中、岩手の「南部美人」蔵元の久慈さんが、「自粛を自粛してほしい」と動画で訴えてくれたのはとても心強かったですね。