富裕層と非富裕層の「1」は全然違う!

前回は、ウェーバー=フェヒナーの法則をあげながら、「所得が増えるほど、なぜか生活の小さな他の楽しみを味わう能力が減ってくる」ことについてお話しました。

外的(物理的)なお金の増加は金額という客観的な数値(購買力)で測ることができますが、それは誰にとっても内的(実感的)に同じ感じ方(金銭感覚)であるわけではなく、保有する資産が大きくなれば小さなお金の増加をうれしいと思うことはないということです。

そして、この感覚量(主観的幸福)は「刺激強度の対数」に比例するというお話もしました。

つまり、所得1000万円の人が所得1億円になったときに感じる感覚量のインパクトを、所得1億円の人が感じようとすると所得10億円になる必要があるのです。所得が低い間は、「1単位分」の感覚量は少しの所得増加で簡単に上がっていきますが、所得が高くなると1単位分の感覚量の増加には膨大な収入の増加が必要になってきます。

とすると、幸福感を得るためにどこまでも所得の増加を求めていくというのは、幸福を求めるやり方としては適切とはいえません。

▼吉田兼好『徒然草』にみる、命の体感時間

今回は、感覚量は「刺激強度の対数」に比例するというウェーバー=フェヒナーの法則の一例として、命の体感時間を見てみます。

命の体感時間を考える上で、かっこうのテキストがあります。

吉田兼好の『徒然草』(鎌倉時代末期のまとめられたとの説が有力)の「第七段」に次のような一文があります。

「かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年をくらすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢のここちこそせめ」

文献を参考に自分なりに意訳すると、こうなります。

朝生まれたカゲロウは日暮を待って死に、夏を生きるセミは春も秋も知らないで死ぬ。考えてみると、日々を過ごすことができるということさえも、実にゆったりとしたことだと思えてくる。命が足りない、命が惜しくて死にたくないなどと思っていれば、たとえ千年生きていても、人生はたった一夜の夢と変わらない儚い気持ちがするだろう。