もめ事の仲裁には、いわゆる人間力が問われます。両者を理詰めで説得しようとしても無理ですし、押さえつけようとすればなおさら反発する。おそらく誰にでもできるわけではないでしょう。

格闘技に「捌(さば)く」という技術があります。相手の攻撃をまともに受けては危険ですから、正対して戦いながらも、攻撃の衝撃を和らげて受け止める。相手の力を半ば受け流すのです。

武道教育研究家 風間 健氏

相手の技を捌くには、その動きを見切らなければならず、肉体にも心にもゆとりが必要。仲裁もこれと似ているのではないでしょうか。相手の心のわだかまりやいら立ちを推し量り、思いやるということができなければ、もめ事の仲裁はうまくいかないでしょう。

職場の同僚同士で諍いがあったり、人間関係がぎすぎすしていたら、私はその職場の管理・監督者に問題がある気がします。人は、単に指示や命令をすれば動くというものではありません。

武道でも、命令されてやる稽古はつらいばかり。「これが正しい。この方法でやりなさい」と一方的に押し付けられれば、弟子たちに鬱憤もたまります。それが会社なら、たまった鬱憤は往々にしてはじけるのではないですか。

上の者は下の者の働きぶりだけでなく、人間関係にも目配りをして、いわば小さな仲裁を日々行いながら組織を動かしていくものではないでしょうか。最近の企業のあり方を見ると、お金の損得が優先して、人の“尊徳”が軽んじられているように思えてなりません。

私は、生きるうえで武士道の精神を信条としています。武士は、社会のなかでの使命を、自ら任じて生きていました。自分の信じることのために行動する。それが原理原則です。

武士道で重視されるものに「義」と「仁」があります。義は道理です。道理は、人の道に照らしてどうかということ。仁は思いやりです。争いごとの仲裁でも、私はこの義と仁の精神がとても大切だと思います。

争う者の言い分には、それぞれに道理があるはず。それを法律や規則がこうだからといって、○と×で判断すれば、一方の道理を潰すことになります。正しいと思うことを否定されれば、人は誇りを傷つけられます。まず、両方の道理を認めることから始めて、両者にとって受け容れやすい落としどころを見出すのが仲裁ではないでしょうか。