安田登さんは下掛宝生流のワキ方であり、「ロルフィング」という治療法の施術者であり、大学では中国古代の文字や思想を研究し、ワキ方になる前にはジャズピアニストだった。孔子は自分の青年期を回顧して「吾少くして賤し。故に鄙事に多能なり」と言ったが、安田さんの多能と博学も驚嘆すべき質のものである。だから、本書を能楽師の余技の随筆のようなものと思って読んではならない。

かつて甲骨文字・金文の泰斗である白川静は古代中国を烈しい呪能に満たされていた世界として描き出した。そこで人々は髪を振り乱し、足を踏みならし、声を振り絞って、祈り、呪い、祝った。

その時代において、文字は単なるコミュニケーション・ツールではなかった。文字は人間とその世界を創造し、破壊するだけの強い物質的な力を持っていた。安田さんはそのようなずっしりした持ち重りのする文字の古義に立ち戻って、『論語』を読もうとする。

古典を再読するとき、私たちはふつう現代人の視点から新しい意味を読みだそうとする。安田さんのやり方は逆である。『論語』の文字を孔子が生きていた時代のリアルタイムの語義において読もうとするのである。

例えば、『論語』には、広く人口に膾炙した「不惑」という語がある。この語について、安田さんはユニークな解釈を施す。

よく考えると、「40にして惑わず」というのは「志学」「而立」から「知命」に至る成熟過程を指す言葉として必ずしも適切ではない(現に、40で惑わない男などいない)。

「惑」という文字はかなり後代に普及したものであり、孔子の時代では同音の別字が使われていた可能性が高い。安田さんはそう推理する。そして、音韻の類似性からこれは「惑」ではなく、「或」ではないかと推測するのである。

『身体感覚で「論語」を読みなおす。』 安田 登著 春秋社 本体価格1700円+税

「或」は「戈」を以て「境界」を画定することである。だから、「口」で囲むと「國」になり、「土」をつけると「域」になる。「或」とは「分けること、すなわち境界を引くこと、限定すること」である。「私はこのような人間である」という自己限定が「或」である。だとするなら、「不惑」とは「『そんなふうに自分を限定しちゃいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない』という意味」になる。

安田さんは同じ骨法で「心」「仁」「天」「命」といった、私たちがその意味を熟知しているつもりの文字について、驚くべき古義を明らかにして、『論語』という書物の深層に踏み込んでゆく。

題名にある「身体感覚」とは、私たちの身体古層にわだかまっている古代人の身体記憶のようなものだろうと思う。身体は古代において文字が持っていた呪能をまだ記憶している。それが文字に触発されると、発熱し、未聞の体感をともなって震え始めるのである。