書籍『野心 郭台銘伝』(プレジデント社刊)の取材は大きな困難の連続だった。「記事の全文を削除してください」と要求する取材先。著者の安田峰俊氏が書籍刊行の舞台裏を明かす。

鴻海の軍隊式管理、ワンマン経営……

今年8月13日から、台湾企業・鴻海グループの傘下に入ったシャープの新体制が本格的にスタートした。

(写真=時事通信フォト)

鴻海副総裁と兼任する形で新社長に就任した戴正呉氏の旗振りのもと、シャープは社員全員に課してきた給与の一律2%カット制度を廃止、組織体制をトップダウン型にするなどの社内改革を急速に進めている。欧州でのテレビ事業への再参入と液晶テレビ販売台数の倍増計画、太陽電池事業の復活といった黒字化に向けた事業展開でも攻めの姿勢を見せる。

懸念されていた大規模なリストラも、今年9月末の時点では実施されていない。当初はEMS(電子製品の受託生産)業者である鴻海によるシャープ・ブランドの舵取りを不安視する声も出ていたが、改革の滑り出しはおおむね順調と見ていいだろう。

もっとも鴻海は、台湾や中国では賛否両論の評価を下されることが多い。1974年に台北郊外で創業した町工場が時価総額4.4兆円規模の世界企業に成長できたのは、徹底したコストカットと製品の迅速な生産スピードによるものだった。だが、それを可能にしたのは、個性の強い創業者・郭台銘氏のワンマン経営と、「軍隊式管理」と呼ばれる苛烈で独裁的な社風にほかならない。

「クビにされやすい環境なんでしょう。誰もが緊張していました」

とは、深センの工場にゼロ年代後半、しばしば出張した日本メーカーの社員・S氏の弁である。

事実、中国工場では高い心理的負荷が一因と思われる現場ワーカーたちの自殺や暴動がしばしば報じられる。また、鴻海は中国各地の地方政府との結びつきが強く、トラブルの際に現地の公安や武装警察を使って問題を穏便に片付ける例も多いと中華圏のメディアではしばしば伝えられる。だが、なにより批判の声が大きいのは、「メディア嫌い」とされる鴻海の秘密主義と、自社を批判的に描いた相手への徹底的な追い込みだろう。なかでも有名なのは、2006年6月に鴻海の中国工場における厳しい労働環境の実態を告発した中国紙「第一財経日報」の報道を、強権的に封殺しようとした一件だ。

この報道が出た後、鴻海は記事を執筆した記者と編集委員に名誉棄損訴訟を起こし、3000万人民元(約4億3000万円)の賠償金を要求。通常、この種の訴訟は新聞社や編集部を相手取るものだが、あえて個人に巨額の賠償金を要求したのは、鴻海のメディアへの露骨な恫喝行為と見ていいだろう。やがて、鴻海と関係が深い深セン市の地裁が、合法的な手続きを経ず被告の記者の個人資産を差し押さえる事態も起きる。結果的にこの件は、大企業による不当なメディア弾圧事件として中国世論の批判が高まり、鴻海が訴えを取り下げて決着した。だが、敵対者や批判者に容赦をしない彼らの姿勢を露骨にうかがわせる事件であった。ほかにも鴻海は、04年に台湾経済紙「工商時報」の記者個人を相手取り、3000万台湾元(約9600万円)規模の名誉棄損訴訟を起こした(最終的に、台湾内外のメディアの反発を受けて和解が成立)。また、その後も自社に不都合な報道を行ったメディアに対して、しばしば訴訟をちらつかせて報道内容の訂正を迫っている。