自身の回顧録『国家なる幻影』(2011)で田中角栄を痛烈に批判した石原慎太郎。しかし2016年、彼は角栄を『天才』と評価した……。田原総一朗と石原慎太郎。2人の論客が振り返る、田中角栄とロッキード事件、そして日本の戦後政治史とは? 対談連載『田原総一朗の次代への遺言』、今回は特別編を掲載します。

改めて、田中角栄を評価する

【田原総一朗】石原さんは、立花隆が「田中角栄研究――その金脈と人脈」を書く前に、「文藝春秋」に厳しい田中批判の論文をお書きになった。僕も読みましたが、非常に厳しい内容でした。田中批判の先鞭をつけた石原さんが、ここへきて田中角栄を評価する文章をお書きになった。これはどういうことですか。

【石原慎太郎】日本の文壇は狭量でね。僕が政治家として売れてくると、逆に作品には偏見を持たれました。たとえば『わが人生の時の時』は野間文芸賞の最有力候補になりましたが、選考委員の吉行淳之介が「こんなもの文学じゃない」って言い出した。それから、いくつかの短編を集めた『遭難者』は金丸信が起訴されて自民党が指弾されたときだったから、一行も書評が出なかった。自分で選んだ道だからしょうがないけど、自分の文学に申し訳なかったね。

ただ、政治家を辞めたら、こんどは早稲田大学の社会学の森元孝さんが『(石原慎太郎の社会現象学)――亀裂の弁証法』という、いい評伝を書いてくれました。これで俺の文学が少し救われた気がしたね。

そのお礼に森さんと会食したのです。その席で彼にこう言われてね。「石原さんの『国家なる幻影』には田中角栄さんが非常に詳しく書かれている。あなた、実は角さんが好きなんじゃないですか」。「たしかにあれほど中世期的でバルザック的な人間はいない。すごく興味があります」と答えたら、「私はあなたが一人称で書いた作品を愛読している。いっそ角さんを一人称で書いたらどうだろう」と言ってくれた。それで『天才』を書き出したわけです。

石原慎太郎が田中角栄を批判した理由

【田原】でも、もともと石原さんは田中角栄の金権政治を痛烈に批判していましたね。

石原慎太郎『天才』(幻冬舎、2016)

【石原】角さんが総理になって最初に国政選挙があったときですよ。福田系の候補者がグループ(後の青嵐会)幹部の集まりにきて「みなさんに共感しているので当選したらグループに入ります」と挨拶をしていきました。その男が「いまから公認料をもらいにいく」というので、誰かが「総裁室は4階だぞ」と教えてやると、「いや、砂防会館の田中事務所でもらいます」という。これにみんな怒ったんです。党の公認料を私的な事務所で渡すとは何事かと。

彼は砂防会館から、3000万円入った袋を持って興奮して帰ってきた。それに加えて2000万円もらったそうな。「いやあ、田中さんは偉大です」なんて言っちゃってね。結局、そいつは本籍福田派だけど現住所田中派になった。それをきっかけに僕は田中金銭批判を始めたのです。

【田原】そもそも青嵐会ができたのは、田中角栄が日中国交正常化をやったときでした。

【石原】日中国交正常化に反対したわけじゃない。反対だったのは航空実務協定。あれはめちゃくちゃでした。

【田原】どういうことですか。

【石原】交渉の中で、北京から外務省に密電が入ったんです。当時の大平(正芳)外務大臣の記者会見で、北京が手なづけた新聞記者に「台湾から飛んでくる飛行機の尾翼には青天白日旗(中華民国・台湾の旗)がついているが、あれを国旗として認めるのか」と質問させるから、必ず否定しろという内容です。当時の外務省の役人は、いまと違って腰抜けじゃなかった。「こんな実務交渉がありますか」と切歯扼腕して、僕らに密電を見せてくれた。それで実務協定はいかんと思った。

大平さんは僕の先輩だけど、それから盾突くようになっちゃった。あとで大平さんの秘書から「なぜ盾突いたのか。大平先生は渡辺美智雄よりあなたに期待をしていて、俺の金脈はすべて石原君にくれてやると言ってたのに」と教えられてね。それを聞いて、惜しいことしたなと思ったけど(笑)。