理科系発想と文科系発想どう異なるか

理科系の発想とは、「原因と結果とをきちんと見極める」ことにある。因果関係の見極め、それは「科学的理解」の真髄である。その理解では、現実の経緯は、えてして直線的で、そうでしかない必然の道として描かれる。リンゴが木から落ちるのは重力が働き、酸素と水素を化合すれば水が生まれる。そこには紛れはない。こうした因果の理解は、自然現象に留まることなく、「科学的理解」として社会現象にも適用されてきた。経営学の世界でも、この理解に基づいた研究が1970年頃から急速に広まった。

しかし、社会の理解の仕方には、科学的理解とは異なる、もう一つのいわば曲線的な筋道(プロット)による描き方もある。それは、「物語的理解」、いわば文科系的発想の立場だ。

ここでは、これらの2つの理解の仕方の特徴を明らかにしながら、経営を理解するうえで「物語的理解」の小さからざる意義を示したい。なお、前回、鮮度概念の誕生を手がかりに2つの立場を浮き彫りにしているので、そちらも合わせて参照していただければと思う(http://president.jp/articles/-/3881)。

結論を先取りして言えば、科学的理解の立場は、「原因から、必然の道筋の中で生まれてきた結果(現実)」という理解を促す。他方、物語的理解は、「(結果となる)現実の生成に関わったいろいろな当事者の判断や思惑、あるいはさまざまな偶然が重なる中で生まれてきた現実」という理解を促す。

この2つの理解の性格の違いについては、以下の2つの図を比較するとわかりやすい。いずれの図も主に、ある人が、過去のある時点〈t-1時点〉から現在時点〈t時点〉に至る過程を示す。

まず、〈t-1時点〉から〈t時点〉に向けて見た状況を考えて見よう。

図1:〈事前の見え〉による道筋
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図1:〈事前の見え〉による道筋

それは、図1に表される。〈t-1時点〉にいるその人は、A、B、Cという3つの選択局面に直面し、そしてそれぞれの局面でいくつかある選択肢の中から一つの選択肢を選んで、〈t時点〉の状況に到達する。さらに線が引かれているが、現在のそこから将来に向けて道が開けている。

この図を見ていると、「A、B、Cのいずれの局面であれ、違った選択肢を選べば、現在(つまり〈t時点〉の地点)とはまったく違った地点に到達したかも……」とか、「今この地点に私がいるというのも、たまたまのもの……」という想像力が、皆さんの心の中に思い浮かぶと思う。

また、私たちが〈t時点〉にたどり着いて、そこから将来を見ると、一番近い未来であるX地点において、いくつかの選択肢が広がっていること。その選択肢の一つを選んで、Y地点に到達すれば、また同じように選択肢が広がっていること、そしてさらにその先の、と続いていく。私たちが進むべき道は、一つ一つの局面とそこでの選択肢を考えると、無限に広がりをもつ。そう見える。物語的理解は、このような〈事前の見え〉の理解に基づく理解の仕方である。