流浪の劉備軍団に帝国を創らせた1人の天才的な若者

劉備は24歳ごろ、生涯の友となる関羽、張飛と出会います。20代の半ばには、黄巾の乱を鎮圧する義勇軍として活躍。しかし彼はなかなか出世できず、曹操と袁紹など群雄が激突していた時代には流浪の境遇を耐えなければなりませんでした。

161年生まれの彼は、荊州の劉表に身を寄せて客将となっている時期に、運命の出会いを体験します。206年に臥龍とよばれた諸葛亮(孔明)を三顧の礼で迎えたのです。このとき、劉備は45歳。当時であればすでに壮年といってよい時期にあたります。

『実践版 三国志』(鈴木博毅著・プレジデント社)

諸葛亮が劉備に示した「天下三分の計」で、劉備は呉と同盟して魏の曹操を赤壁で破り(208年)、荊州と益州を得て蜀帝国への基盤を固めます。諸葛亮の大戦略は劉備陣営の力を、確実な成果に結びつける方向性の役割を(劇的に)果たしたのです。

世の中には努力が尊いという共通認識があります。しかし、「骨折れ損のくたびれもうけ」という言葉もあるように、努力=そのまま成果ではありません。劉備は六韜の兵法により、魅力あふれるリーダーとしての自分を創り上げ、多くの部下が彼に従いましたが、努力を成果に結びつける大戦略は、みごとに欠落していました。

「魏の謀臣程イクたちはみな関羽と張飛には一万人を相手にする力があると賞賛していた」(書籍『正史三国志蜀書』より)

三国志読者にファンの多い、名将趙雲(ちょううん)も劉備陣営にはいました。しかし彼らは旗揚げ以降、20年以上戦い続けていまだ流浪の日々を送っていました。それがたった1人の天才的な青年、諸葛亮の大戦略により、努力が確実に成果に結びつく道を歩むようになったのです。1万人の兵に匹敵する猛将たちを抱える劉備が、天下の一角を狙う立場に躍り上った理由は、もともと持っていた才能や武力ではなく、それらを効果的に成果に結びつける道(孔明の大戦略)を得たことだったのです。