織田信長(おだ・のぶなが)
1534~82年。尾張の国生まれ。60年、有力大名の今川義元を桶狭間の戦いで破ってその名を天下に轟かせた。「天下布武」を旗印に武田氏、上杉氏、本願寺などの強力な勢力と対峙するも、京都の本能寺で部下の明智光秀の謀反にあって自害したとされる。

情報戦略を先駆けて取り入れた

<strong>キリンビール社長 松沢幸一</strong>●1948年、群馬県生まれ。県立館林高校卒。73年北海道大学農学部大学院修士課程修了後、キリンビール入社。キリンヨーロッパ社社長、常務執行役員生産本部生産統轄部長などを経て今年3月より現職。ドイツへ留学経験もある。「83年、ホップの品質検査などで社会主義時代の旧チェコスロバキア、ポーランド、旧ユーゴスラビア諸国を回り、東側と西側の違いを肌で実感した」
キリンビール社長 松沢幸一
1948年、群馬県生まれ。県立館林高校卒。73年北海道大学農学部大学院修士課程修了後、キリンビール入社。キリンヨーロッパ社社長、常務執行役員生産本部生産統轄部長などを経て今年3月より現職。ドイツへ留学経験もある。「83年、ホップの品質検査などで社会主義時代の旧チェコスロバキア、ポーランド、旧ユーゴスラビア諸国を回り、東側と西側の違いを肌で実感した」

織田信長が好きです。戦国という変化の激しい難しい時代にあって、恐れることなく次々とイノベーションを実行したためです。つまり、今でいう「構造改革」をいつも断行していました。

それは鉄砲の大量導入、新弾丸の開発、鉄甲船の開発など、兵器の革新を図った軍事的な面ばかりではありません。兵農分離によって、専門軍隊を創設するなどの組織改革を行い、実力ある人を大胆に登用する人事政策、楽市楽座などの経済政策にも、イノベーションは及びました。

ビール業界も、まさに戦国時代です。アサヒビール、サントリー、サッポロビールといった強い競合ばかりです。こうした強い相手に、キリンがいかにしてお客様の支持を獲得していくのか。時代は違いますが、戦国時代の信長から学ぶ点は多いのです。

信長が行った最大のイノベーションは、他の戦国大名と比べて、情報を重視したことでしょう。乱波(らっぱ)、草などと呼ばれる忍び、つまり諜報部員を全国に配したのです。この情報を重視する戦略が、最初に大きな成果を生んだのは、1560年夏の桶狭間の戦いでしょう。京に向かって兵を進める今川義元の軍勢は、2万とも4万とも言われる大軍。対する信長軍は3000程度の兵力です。

信長は、家臣である梁田広正の配下にいた乱波たちの情報から、今川義元の所在を知ります。そのとき、一時的な嵐が来るであろう気象情報までも、地域の乱波から信長は掴んでいた。その結果、今川軍を信長はその10分の1の兵力で撃破したのです。その論功行賞に大きな特徴がありました。義元の首をとった毛利新助と服部小平太ではなく、正確な情報をもたらした梁田広正と彼の配下の乱波たちにMVPを与えたのです。

戦国最大の逆転勝利である桶狭間の戦いを機に、信長は勢力を拡大させていきます。同時に人への評価基準は、旧来の武功よりも、重要な情報を早く正確に収集する情報収集へと変わったのだと思います。戦国時代は、先が読めない乱世の時代でした。情報を的確に捉えて、解析し、次に打つ手を決めていく自己革新が求められる。信長は勇ましい精神論とは違う情報戦略を、時代に先駆けて取り入れていたのです。