猛烈サラリーマン……。当時、富士ゼロックスに入社2年目、コピー機のリース契約を取ってくる営業マンだったロッキー田中さんもその1人。早朝6時に出社し帰宅が深夜というのは毎度のことだった。だが悪戦苦闘の日々が続く。

<strong>ロッキー田中</strong> 61歳●1946年、福井県生まれ。福井商業高校卒業後、薬品会社に入り、22歳で富士ゼロックスに転職。49歳で退職し写真家に。「自分の作品を通じて人と喜びを共有できるのがプロの仕事」と言い切る。東京都品川区西五反田で「ときめきの富士アートサロン」を開設し、作品の展示販売を行っている。
ロッキー田中 61歳●1946年、福井県生まれ。福井商業高校卒業後、薬品会社に入り、22歳で富士ゼロックスに転職。49歳で退職し写真家に。「自分の作品を通じて人と喜びを共有できるのがプロの仕事」と言い切る。東京都品川区西五反田で「ときめきの富士アートサロン」を開設し、作品の展示販売を行っている。

「達成意欲が極めて強く、元気で溌溂と挨拶して回る営業マンは私よりほかにいない、と自負していたが、なぜか2年間はまったくダメだった。原因は、お客に向かって一方的に商品を“説得”していたこと。極意は“納得”してもらうことだと気づいたのは、先輩のアドバイスやデール・カーネギーなどの本を読んで勉強したことも大きいが、人には受け入れやすいタイミングがありそれを察知する感性を持つことだと、2年間の失敗体験から学びました」

以後はトップ営業マンをひた走る。31歳のときにはノルマの5倍の契約を取り付け全国5000人の営業マンの頂点に立つ。だが40代になって管理職となると、その適性や生きがいに疑問を感じ、49歳で退職する。そしていきなり掲げた肩書が「富士山専門カメラマン」だった。1200万円の年収を約束された会社勤めを捨てることに不安はなかったのか。

「妻は猛反対、同僚からは何をバカなことを言ってと大笑いされた。でも不安はなかった。かつて上司から教えられた、『成功するには、今の自分と将来なりたい自分の姿のギャップが大きければ大きいほどいい』という言葉を信じ込みました」

1月に刊行した『誰も見たことのない ときめきの富士』(飛鳥新社)には自信の62景が納められている。ときめきの富士アートサロン(http://www.rocky-fuji.com)

1月に刊行した『誰も見たことのない ときめきの富士』(飛鳥新社)には自信の62景が納められている。ときめきの富士アートサロン(http://www.rocky-fuji.com

「人の想像外のことをやれ」「その成功のために考え抜いてサクセスストーリーをつくれ」というものだ。脱サラ→日本一の富士山カメラマンになる。このギャップを10段階に分け、1段ずつ上り詰めるストーリーを頭に描いた。ステップの1段目は「足場を人の中に置く」、2段目は「常識と訣別すること」……。富士山麓に住み込むのではなく東京の自宅から通って撮影し、それ以外の日は富士ゼロックスの4カ所の工場を巡回して社員食堂で作品の展示販売会を開いた。

さらに、かつて顧客だった中小企業の社長を訪ね歩いた。「富士山は縁起がいい」「見ていて気持ちが安らぐ」と口コミで広まった。

ロッキー田中さんが描いたビジネスとしての成功のイメージは、常に人の輪の中で活動することにあったのだ。

「退職時には、60歳になってからやればいいのにとよく言われたが、それではただの趣味でしかない。夢とか希望とか、そういう言葉を大人だからこそ堂々と口にすればいいのです。それが実現の一歩だと思っています」

(撮影=小川 光)