顧客を逃したくない心理を裏付ける理論

大所高所に立った言い回しはこれぐらいにしておいて、実地での顧客との応対に役立つ用語は何かないだろうか。

大口の顧客がいるとする。資金は潤沢だ。こちらの商品に大いに興味も示している。ただ、態度がなかなか煮え切らない。でも、目の前のこの獲物を逃したくない……という心理が生じた場合、特に住宅や車など高額商品の営業マンは、いつの間にか相手の術中にはまっている可能性がある。

その理由が、行動経済学の代表的な概念であるプロスペクト理論。人があるものを目の前にしたとき、それを得たときの効用の絶対値より、得ることができなくなったときのマイナス効用の絶対値のほうがずっと大きい、というものだ。

この理論がその通りなら、顧客をゲットした充実感よりも、顧客を失う恐怖感のほうが絶対値がずっと大きい、ということになる。そのあたりを心得た手練れの顧客は、顧客を失いたくない営業マンを「おまえから買いたいんだよ」などと繰り返して心理的に縛り付け、思うままに操って、大幅な値引き価格を引きずり出してしまうのだ。

まるで催眠術のようだが、そういう理論が存在するとわかれば少しは納得がいく。逆に、自分が買い手に立った際に、この理論を思い出して値切ってみるのもよかろう。

因みに、シャドープライスとはこうした内緒の価格のことではない。機会費用(ほかの選択肢を選んだら得たであろう利益)が市場価格に正しく反映されていない商品について、その本当の便益や費用をはじき出すときに使う「影=本当の価格」のことである。

オークションでお目当ての品を高値で競り落としても、その後の転売価格が買い値を下回り、結局は損してしまうことを勝者の呪いと呼ぶ。

これは、競合他社との値引きバトルを連想させる。際限のない値引き合戦の末に落としたとしても、それが「勝ち」なのかどうか難しいところ。価格とは別の次元で勝負しないと、「呪い」から逃れるのは難しい。

ベルトラン=ナッシュ均衡についても触れておこう。2~3社程度が寡占するマーケットで価格競争が起きた、と仮定する。各社とも、他社製品の価格を横目で見ながら少しでも低い価格を設定し、利潤の最大化を目指す。

すると、自社の価格は他社の価格が限界費用(生産量を1ピース増やしたときの総費用の増加分)より高い限り、相手の価格より低く(かつ限界費用よりは高く)設定する。結局、各社とも限界費用まで下げたところで価格が均衡する、というわけだ。

これは、寡占市場のモデル(ベルトラン競争)と、ほかのプレーヤーの戦略を前提に自分が最適の戦略を取っている状態(ナッシュ均衡)の2つのゲーム理論の組み合わせである。もちろん、現実のマーケットが理論通りきれいに均衡するわけではないが、価格が決まる理屈として知っておいてもいい。

同じく値引き競争とも関連付けられるのが、有名な囚人のジレンマだ。共犯の疑いのある二人の囚人が別々に尋問を受け、(1)二人とも黙秘すればともに懲役2年、(2)自分だけ自白すれば自分は釈放され、相手は懲役10年、(3)ともに自白すれば各々懲役5年、と持ちかけられる。

倫理をひとまず度外視すれば、二人とも黙秘するのがベストだが、別々に尋問される囚人二人は以心伝心というわけにはいかない。自分が黙秘しても、相棒が自白してしまえば元も子もない。疑心暗鬼の末、結局は二人とも自白して損をする(2年ですむところを5年おつとめする)ことになる。

ある商品について、競合店どうしが協調して一定の価格を維持すればいいのに、他店が値引きの抜け駆けをするのではないか、と疑心暗鬼を生ずる……という葛藤が、値引きの応酬という不毛の競争に発展してしまう。まさにこのジレンマそのものと言っていいだろう。