織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に限らず、戦国武将の2代目は影が薄い。

父が「明」だったとすれば、息子たちは「暗」だろう。

父たちは、どうにも歯がゆい思いをしていたにちがいない。

息子たちは、「父に比べて自分はダメだ」と思っていたのか、「時代がちがう」と思っていたのか……。

たしかに「時代」はちがっていた。父親たちは戦国時代の最盛期を生きていた。息子たちは戦国時代の終焉期、衰退期を生きていた。だが「時代がちがう」で片づけてしまってよいものなのか。

いま放映されているNHK大河ドラマ『天地人』も、しかり。

阿部寛が好演した上杉謙信が生きていた時代は、まだ織田信長が天下を統一する前だったこともあるかもしれないが、領地を接する武田信玄、関東管領として対立していた北条氏康、北陸で刃を交えた織田信長らと対等に渡り合っていた。カリスマ性に富み、「戦国一の武将」とも噂されていた。まさに「明」の武将だったと言っていい。

だが謙信が他界すると、養子の上杉景勝(甥)と養子の上杉景虎(北条氏康の七男)が対立した。謙信が「生涯不犯」を誓い、結婚せず、子供をもうけなかったためだ。

「御館(おたて)の乱」で景勝は勝利するが、戦さが長引いて国力は低下。本能寺の変が起きたことで信長の「北征」をまぬがれ、羽柴秀吉に与した。秀吉の命令に従うままに会津120万石に加増され、5大老のひとりに列するまでになったものの、秀吉が他界したのちも豊臣家への「義」を貫いたため、関ヶ原の戦いでは西軍に味方することとなった。

景勝が人生のボタンをかけちがえた瞬間だった。

関ヶ原の戦いで西軍は敗れ、景勝は米沢30万石に減封されることとなる。かつて越後を支配していた上杉家は、出羽半国の大名になってしまったのだ。

年収が4分の1になっても、食わせなければならない家臣が減るわけではなく、上杉家は苦難の道を歩むこととなる。緊縮財政策によって、上杉家断絶だけはまぬがれたが、かつての上杉家ではなくなっていた。なんとかブランドだけが残されたかんじだ。

景勝が「愚将」「凡将」だと言っているのではない。景勝の養父謙信が、あまりに優れていたのだ。言葉をかえれば、謙信には見識というものがあった。

謙信は、「戦国一の武将」と噂されながらも、むやみに信長と戦うことはせず、国力の維持を第一に考えていた。

川中島の戦いでも信玄と死闘を繰り広げることまではしなかった。その信玄が死んでも、遺児勝頼を尊重し、攻め滅ぼすことはしなかった。あくまでも「義」を貫いた。

越後という国が豪雪地帯であるゆえ、戦さに出にくいいっぽう、戦さを仕掛けられにくいという地理的有利もあった。米の産地で食糧が豊富だったという経済的有利もあった。ゆえに謙信は国力維持を重んじていた。

ひとつだけ謙信に辛口なことを言うとすれば、「生涯不犯」で子供をもたなかったことが災いした。そして景勝と景虎のいずれに跡を継がせるかを決めず、国主としての帝王学をしっかり学ばせることをしなかったことが、上杉家の衰退を招くことになってしまったのだ。

跡を継いだ景勝は、石田三成への「義」を貫いた結果、関ヶ原の戦いで敗れ、年収4分の1に減封された。

運がなかったといえばそれまでだが、謙信のように己をしっかりもち、国力第一を考え、時代の趨勢を見て、関ヶ原の戦いで東軍に味方していれば、上杉家は伊達家ほどの力をもつ大名になっていたかもしれない。