慶應義塾大学で「学生運動の闘士」へ

「学内は騒然としていましたよ。慶應大学では、激しい学生運動はなかったと話す人がいるけど、あれは嘘だね」

東京管理職ユニオンの設楽清嗣さん。慶應義塾大学中退

労働組合・東京管理職ユニオンのアドバイザーの設楽清嗣さん(73)が、1960年に慶應義塾大学文学部哲学科に入学したときを振り返る。多くの大学などで日米安保反対闘争が本格化した頃だ。

母校の都立田園調布高校の会報誌に、「慶應大学では学生運動がない」と書かれてあり、抗議をしたことがあるようだ。

「学生運動がない、なんてことはありえない! 学費値上げに反対し、1964年に全学ストライキがありました。私は、それに参加したひとりだったのですから……(笑)」

大学1年のとき、日本共産党に入り、運動にのめり込む。1年後には、党を除名処分となる。岸内閣のもと、日米安全保障条約が締結され、「安保反対」は受け入れられなかった。

設楽さんは、党の諸会議などで痛烈に批判した。

「闘争で負けていながら、総括ができていない! 運動が持続しなかったことをどのように考えているのだ!」

その頃から、“論客”として頭角を現していく。当時をふり返りつつ、大きな声で笑う。

「ずいぶんと生意気なことを言っていたな……。党からは、反党分子というレッテルを貼られ、除名になった」

一方で、アルバイトも次々とした。横浜の港で港湾労働をしたり、家庭教師もした。

そのような経験をする中で、会社員にはなりたくないと思ったようだ。

「雇われるのは、奴隷になることと感じました。就職活動なんて、とてもできない。早く一人前になって、自活できるようになり、このアホな大学から抜け出さないといけないと強く思いました(笑)」

就職をした先輩がキャンパスに現れるときがあった。話を聞くと、会社員の生活に魅力を感じなかったという。設楽さんは、「おもしろかった先輩も会社の奴隷のようになっていて、うんざりしました」と振り返る。

「慶應の学生は、早稲田や明治、中央の学生と比べると、大人びていました。世の中の常識を先取りしているかのようでしたね」

学生運動をする仲間の中には、その後、明治大学の教授を経て、国会議員になった栗本慎一郎さんなどがいたという。

「栗本さんは、通信傍受法(盗聴法)の制定に、自民党の国家議員でありながら反対をしたでしょう。やはり、常識人であり、リベラルなのでしょうね」